眠りを失う王子は神を告発する 第16話「第14章」
石造りの大廣間に、時間が溶けていた。柱の影は低く、灯りは一つ、焦げたタールの匂いを保ったままゆらゆらと揺れている。床は粉塵で白くなり、ところどころに付着した古い血が濃茶の縞を作っていた。カイは息を呑み、指先で胸元の徽章を撫でた。金属は冷たく、かすかな振動が掌に伝わる。彼の指先には、まだ夜となった王城の軋みが残っていた—抜け出してからの疲労が、頬骨の奥で小さな石のように固まっている。
石造りの大廣間に、時間が溶けていた。柱の影は低く、灯りは一つ、焦げたタールの匂いを保ったままゆらゆらと揺れている。床は粉塵で白くなり、ところどころに付着した古い血が濃茶の縞を作っていた。カイは息を呑み、指先で胸元の徽章を撫でた。金属は冷たく、かすかな振動が掌に伝わる。彼の指先には、まだ夜となった王城の軋みが残っていた—抜け出してからの疲労が、頬骨の奥で小さな石のように固まっている。
「ここが、初源殿か……」
隣でレイナが短く吐息を漏らす。彼女の声は、反響を拾って薄く伸びた。レイナの眼は光を嫌うように細く、常に計算をしている。彼女は腰の鞘を引き、短剣の刃先に指紋を残していた。ユールは長いローブの裾を握り、唇を震わせながら古文をなぞっている。かれはかつての祭女(つかさ)で、ここには特別な因縁があった。
中央に据えられたのは、扁平で黒光りする石盤だった。盤の縁には細い溝が幾重にも彫られ、そこに錆びた針金のようなものが絡まっている。溝の奥には、目に見えぬ何かが潜んでいるように、かすかに唸る。周囲には、寝台のような台が並び、薄い布に包まれた人々が等間隔で横たわっていた。口は半開き、肌は灰色を帯び、まぶたは夢のない重さで閉じられている。眠りを奪われた者たちだ。
カイは台に近づき、一人の若い男の手を掴んだ。名はアーロ――屋敷の下働きをしていたという記録をユールが見つけていた。アーロの手は冷たく、骨が浮き出している。カイは深く息を吸い、覚悟を決めた。
「始める。綴証を――」
言葉と同時に、掌から細い糸のような光が溢れ出した。それは言葉ではなく、声の残滓を編む力だ。カイが誰かの胸に触れると、その者が見た悲惨な映像、聞いた嘆き、舌先で感じた最後の名が一本の線となって彼の周囲に結ばれていく。光はアーロの体から引き出され、針金の溝に向かって束ねられ、やがてたおやかに櫛状になって空間に立ち上がった。
だが糸を引くたび、カイの頭のどこかが薄く剥がれるように感じる。まずは小さなものだった――母がよく編んでくれた糸の匂い。記憶の隙間からその匂いだけがするりと消え、代わりに空洞が残った。カイは眉を寄せ、強く握った拳の甲を噛んだ。
「どうした、殿下?」レイナが低く囁く。「続けるのか?」
「……止めるわけにはいかない」カイは答えた。声が震えた。だが彼の口端にかすかに笑みが浮かぶ。真実を集める先に、告発の道がある。そう彼は信じていた。信じようとしていた。
アーロの記憶は波のように押し寄せた。父親が軍に連れて行かれた日の夜、台所で恐怖に震えながら壊れた皿を見つめたこと。領主の令が来るたび、村の眠りが浅くなっていったこと。証束という器具を村人が持ち出し、眠りがより浅くなった夜に、子どもが泣き止まなくなったこと。アーロの声は切れている。カイはそれを編むたび、盤にその声を縫い込んでいった。
糸が増え、声が積み重なると、やがて一つの大きな合唱のようになった。声は一人称でも三人称でもなく、痛みと怒りと寒さを混ぜた黒い音で、石の天井を震わせた。盤はそれに反応して青白く脈打ち、溝の針金がきしんだ。
その瞬間、異変が起きた。広間の外、地下へ続く細い通路の向こうから、遠くで何かが崩れる音がした。ユールが顔を上げ、目を見開く。
「封印の鎮符(しずめふ)が……弱っている!」
レイナが素早く顔を顰め、短剣を握る手に力を込める。「ここはまるで、本体に響かせる増幅器だ。綴証による真実の声を供給すると、盤がそれを拾って反響を返す構造だわ」
「反響?」カイは返答する余裕もなく、アーロの最後の叫びに合わせて糸を引いた。だが、そのとき、胸の奥にあったはずの母の名が、すべて消えていた。カイは声にならない音を上げた。思い出そうとするほどに、空白が広がる。彼の幼い頃に忍び込んでいた暖炉の暖かさ、香ばしいパンの耳、母の左耳にあった小さな傷……一つずつ溶けていく。
「それが代償か」ユールは呟いた。彼の声には悲しみが混じっていた。「綴証は真実を剥ぎ取る。だが剥ぎ取られた先は、――あのものの語り部に取り込まれる。記憶と証言の格差だよ」
「取り込まれるって?」レイナが荒く息を吐いた。「盤が、集めた証言を眠りの意匠へと変換している。救済を強制するほど、ここは『眠らない』の対価を世界に撒き散らす。つまり、あんたが真実を武器にするほど、その報いとして眠りの欠乏が広がるってことよ」
そこに現れたのは、白い服を纏った女だった。監守(かんし)と刻まれた紋を胸に、セラと名乗る彼女は静かに階段を降りてきた。髪は短く切り揃えられ、眼は一つだけが深い灰色に染まっている。年老いた顔には苦渋の線が刻まれていたが、腰の後ろの帯には、見慣れた針金の束がぶら下がっていた。
「その力を使う者が来るとはね」セラの声は乾いていた。「王家の者か、あるいは……宣告者か。どちらにせよ、綴証はここでは禁忌だ。初源の民は自らを守るために眠りを差し出した。眠りは交換であり、均衡だった。あなた方のように一方的に解釈する者が現れれば、均衡は崩れる」
「均衡って、誰のためだ?」カイは問うた。言葉は尖り、だがその中の痛みは隠しきれなかった。アーロの声がまだ胸の中で震えている。彼を聞かせなければ、アーロの苦しみは誰にも届かない。届かなければ、王らの所業は告発されない。だから彼は綴るしかなかった。
セラは静かに首を振った。「あなたが知っているか、王子殿下。眠りを奪う技術と、証束(あかしのたばね)の原理は一緒だ。眠りを奪うことで労働と服従を定着させ、証を束ねることで民を統制する。それは始祖の選択だった。あなた方がそれを暴けば、同じ力が反転して、眠りの不足を増やす。人々は『救われる』と望んだ者を怨むようになる」
「それでも、真実は必要だ」カイは叫んだ。「もしこのまま黙っていれば、彼らはただ消える。あの顔、あの名前を奪った者たちに、説明を求める声を上げる!」
言葉は剣のように突き刺さり、だがセラの目は揺れない。「真実は必要だ。だが方法を誤れば、真実そのものが罰になる」
広間の空気が、まるでぞくりと痙攣した。盤は震え、溝の針金が鳴った。レイナがすばやく割り込む。「このまま続ければ、ここで集めた証言は全て盤の中に封じられる。外に持ち出せても、その直後に増幅の波が街へ、村へ、広がる。眠りの欠如は感染のように連鎖する。あなたはそれを—」レイナの声が詰まった。「あなたはそれでもいいの?」
カイは手を震わせながら袖口を押さえた。胸の内には空洞が広がり、そこにあるべき記憶が吸い取られていく感覚。思い出の一つが引き裂かれるたび、誰かの顔が、名前が、色が薄れていく。ユールは近づき、カイの肩に手を置いた。手の熱が冷たく感じる。ユールの目には、同情と決意が同居していた。
「一つ提案がある」ユールは低く言った。「この盤の縁に刻まれた回路を断てば、反響の増幅は抑えられる。だがそのためには、直接盤に触れて封符を解除する必要がある。封符が外れれば、この場にある眠りは一時的にふるえ、覚醒の可能性を持つ。その瞬間、証言は綴られる。だが代償は大きい。封符解除には手を汚す者が必要だ。封符は生きを喰らう」
「生きを喰らう?」レイナ