眠りを失う王子は神を告発する 第15話「第13章」
夜はいつもより薄く、房の窓から差し込む光は一筋の紙の裂け目のようだった。鉄格子の影が石の床に斜めの縞をつくり、ライロスはその上に掌を置いていた。掌の皺に泥の匂いが残る気がした。匂いを辿れば、それはもう自分のものではない幼い日の畑の記憶だったはずだが、縁がぼやけていて掴めない。
夜はいつもより薄く、房の窓から差し込む光は一筋の紙の裂け目のようだった。鉄格子の影が石の床に斜めの縞をつくり、ライロスはその上に掌を置いていた。掌の皺に泥の匂いが残る気がした。匂いを辿れば、それはもう自分のものではない幼い日の畑の記憶だったはずだが、縁がぼやけていて掴めない。
遠くで群衆のざわめきがうねる。市壁外からの抗議や、時折やってくる商人の喧噪。司法の決定が先延ばしになったと聞き、外はなおさら熱を帯びているのだろう。室内はろうそく一本で、芯の燃える音がかすかに耳に残った。睡眠は遠く、彼のまぶたは重くなるどころか、開いている時間が長くなるほどに世界の輪郭が尖っていく。
「また眠れないか、王子様」声は低いと同時に柔らかかった。入り口の小窓から顔を覗かせたのは、マルだった。外套を濡らした雨の匂いを纏い、唇には外で聞いてきた言葉を噛みしめるような痕跡があった。マルはいつも選んで来る。救出計画ではなく、情報を運ぶ役を。
ライロスは手を振って合図した。マルは窓枠に背を預け、指を音もなく動かして小さな包みを投げ入れた。包みは布の裂け目から派手な鳥の羽のような光を漏らし、床に落ちると柔らかい音がした。中身は糸綴りの紙片、そして乾いたぶどう。紙片に走る字はざっくばらんで、訴えたい事柄と約束の日時、そして一行だけ〈オーレンの子が捕える〉とあった。
「捕えられた証人か」ライロスは声を抑えた。オーレン──国境側の中尉であり、軍が村を襲った夜に隊にいた男。マルの目が鋭く光る。
「彼女は女の子じゃない。年端の行かない兵の証言だ。隊長に直に従ったと叫んでいた。だが隊長は『命令は神からだ』と言った。それを——」マルの声が途切れた。
ライロスは思わず笑ったような呻きを上げた。笑いが風に消えたのを聞いて、マルが眉を寄せる。
「無理か?」
「できる」ライロスは言った。「だが代償がいる。毎度増える」
彼は自らの胸を触った。皮膚の内側で、いつの間にか薄く光る痣が見える。指先に触れると、小さな痛みが走った。呪いは見える。使うたびに刃のように彼の記憶を削る痕が生まれる。その刃は、彼が守ろうとするものへと用途を振るえば振るうほど鋭くなる。
マルは包みからさらに一枚の紙を取り出した。それには、オーレンの名と、彼が恐怖で震えながら聞いたとされる司令の言葉が赤く書かれていた。ライロスの声が奪ったものを返すように、彼は紙を握りしめ、床に座ると両手を組んだ。瞳を閉じる。目を閉じることが眠りと同義ではなくなって幾年になったか、彼にはわからない。
「証綴り」——彼は名づける習慣を持たなかったが、今日の夜は違った。幾つもの生の声を、一本の線に繋ぎ合わせる行為。近年、彼が裁判で引き出した証言のそれは、人々に共感を与え、嘘を暴いた。だが、誰の証言も零れ落ちることなくまとまればまとまるほど、彼は自分の内側から何かを落としてしまう。
掌を当てると、オーレンの夜が入ってきた。火のにおい、腐った藁の匂い、軍靴が踏む村の泥。ライロスはそれらを一つずつ拾い上げ、ひとつの情景に編んでいく。声が積み重なり、重奏となって彼の頭蓋に鳴る。オーレンの後ろで聞こえた命令の輪郭、司令官が礼拝の言葉を借りて火を指示した瞬間の嘲り。命令が「神の意志」だとされた瞬間、村の屋根が光を食われる。
視覚と音が混ざると同時に、彼の脳は何かを放り出した。ぴんと張った糸が切れるように、ライロスの中の一片が落ちた。最初は小さなもの、幼児の頃に母が頭巾の端で指をぬぐった習慣の感触。彼はそれを掴もうとしても、糸の端は後ろ手に滑り落ちる砂のようだ。胸のどこかが冷たくなり、彼は息を吸い直した。
「覚えているか?」マルが囁く。外の世界は近く、しかし届かない。
「いや、消える。毎度だ」ライロスは苦笑した。「でも……誰かがそれを語るとき、消えるのは仕方ない」
「仕方ないのか?」マルは苛立ちを含めて短く言った。窓枠越しの月光が彼女の横顔を白く洗い、決意の影が落ちる。
彼は証綴りを完結させるために、マルが渡した紙片の隅を触った。オーレンの声がますます鮮明になり、ライロスはその声すべてをひとつのナラティヴに染めていった。声は戦場での指示、捕虜の泣き声、司令が祭壇で唱えた言葉、そして命を差し出すように強要された村人の顔で満ちていた。証拠はつながり、輪郭を持った。一つの真実が生まれた。
真実が生まれると同時に、彼は自分の幼い頃の母親の顔を一瞬忘れた。顔の輪郭はそこにあるのに、表情がない。名前は――言葉がすり抜ける。彼は必死に思い出そうとしたが、代償はその場で取られた。胸の奥の温かさが冷え、代わりに冷たい石の感覚が残った。
「何を守っているのか、忘れてしまうじゃないか」マルが目を細める。「君が守るといっていたのは、記憶でも良心でも、誰かの今日の命でもあったはずだ。全部消えてしまうとするなら」
ライロスは窓の外を見る。外では槍を掲げた市民の影が揺れる。誰もが選択を迫られている。一人の人間にすべてを託すのが正しいのか、彼の胸で問いが重くなる。
「それでも証言を集める」ライロスは静かに言った。「証言が束ねられれば、神の代理の言葉が嘘だと示せる。制度は揺らぐ。人々が自分で選べる余地が生まれる」
マルは一瞬黙った。外套の端を噛む仕草が、彼女が苦境をどう受け止めているかを示していた。
「昨日、外で聞いた。オーレンの上官、クラノスが捕えられたと。だが牢に入っているのは暇つぶしの囚人じゃない。彼の胸にはいつの間にか、祈祷の印が浮いているという。処置済みだとさ。あれが本物なら、名前は消えても力だけは残る。私たちが得た証言も、試される」マルは言葉を選んだ。
その瞬間、扉の外で足音がした。守備長レグの声が低く告げる。
「王子様、外の混乱が激しくなる。拘束されている人物のひとりが──民衆に取り囲まれていると連絡が入りました。あなたの判断は?」
ライロスは黙っていた。彼は一度に多くを抱えたくなかった。だが、情報はマルからは止まらない。彼女自身が外で人々の運動を選び、誰の命を賭けるかを決めている。マルの選択は彼を助けるより重い。彼女は外で声をあげることで多くを危険にさらしていた。
「公正な裁きをさせよ。暴力で奪おうとする者は止めろ」ライロスはゆっくり言った。言葉は慎重だった。これは一見消極的に聞こえるが、選択を生むために不可欠だと彼は考えた。力ずくで救うのは簡単だが、それは呪いを増幅する。強制的な救済が呪いを呼び、代償はさらに重くなる。
レグはため息をついた。「王子様、それは……我々に武力行使を禁じる命令です。民衆の中には兵の家族もいる。抑えきれないと──」
「抑えきれないなら方法を変えろ。徴兵の名簿と命令書をこの手に──」ライロスは自分でも驚くほど冷静に続けた。「それが公にされれば、軍の『神命』は疑われる。私がそれを証する。だが私は代償を払う。この城の人々にも、外の者にも代償が行くかもしれない。だが、選択を奪い続けるよりは、赦されるべきだ」
レグの顔に苦渋が走った。彼は首を振り、何かを飲み込むようにして外へ告げに行った。マルは窓の格子に両手をつき、息を吸い込む。
「私が外で──暴力で