眠りを失う王子は神を告発する

眠りを失う王子は神を告発する 第14話「第一部幕間」

朝が、いつものように王子の寝室の百合の紋の縁を冷たく撫でた。窓の格子の隙間から差し込む光は薄く、床に落ちた羽布団の端だけを白く浮かび上がらせる。王子はその上に横たわったまま、掌に小さな木の札を挟んでいた。札の表面には自分の字で刻んだ名前があったはずだが、指先で触れるうちに輪郭がぼやける。札は手の中で軽く、滑っていく気がした。

朝が、いつものように王子の寝室の百合の紋の縁を冷たく撫でた。窓の格子の隙間から差し込む光は薄く、床に落ちた羽布団の端だけを白く浮かび上がらせる。王子はその上に横たわったまま、掌に小さな木の札を挟んでいた。札の表面には自分の字で刻んだ名前があったはずだが、指先で触れるうちに輪郭がぼやける。札は手の中で軽く、滑っていく気がした。

「起きてください、陛下。」

戸の方から来た声はマルのものだ。書記見習いの彼女は薄手の外套をまとい、肩に証録の綴じられた革袋を抱えていた。袋の端には幾つかの紙片と、古びた鋲が光を返している。マルの目は眠気を知らない若さで鋭く、王子の顔の下にできた紫の痕を見てすぐに息を飲んだ。

「また増えたか」

王子の声は紙の上に筆を落としたときのように乾いていた。まぶたの縁、頬骨の下に広がる紫は、城の者がそう呼ぶ「眠痕(ねむこん)」だった。皮膚の下でざらつく石のように、触れると冷たく痛む。

「今日は…試したい方法があります。直接、全てを貴方に入れるのではなく、記録器官を介して束ねる。証束が繋いだものを、私が書き留める。貴方自身の記憶を保つ余地が、少しは残るはずです」

マルは革袋を開け、古い木の定規のようなものを取り出した。それは単なる道具に見えたが、縁に細かな刻印が施されている。彼女が小さく息を吐いた。王子はその刻印を見ているうちに、刻印を刻んだ誰かの顔を思い出しそうになった。だが、思い出は指の隙間からこぼれる砂のように零れ落ち、記憶の枠だけが残ってしまう。

「証束は、触れた者の見た真実を束ねる。だが、束ねるための“結び糸”はいつも貴方自身の中の紐を引き出す。記録があれば、その一部を記録に流し、貴方の紐を長持ちさせられるかもしれない」

王子は札をもう一度握りしめた。札の表面にあるはずの線の刻み、温めた夕暮れの匂いと笑った声の断片が、言葉の端からまた消えていく。彼は目の前の光景を確かめるようにマルの顔を見た。彼女は震える指で定規を握り、深く頷いた。

「行きます。まずは最も新しい証人、燔屋の女。彼女は娘を奪われたと言っています。彼女の記憶だけを──実際の映像として束ね、私が書く。貴方は見て、それを公にするかどうかを決めてください」

廊下の向こうで、足音が近づいた。小さな女が連れて来られた。縫い目の粗い外套、手は洗われておらず、唇は青かった。女の瞳は震え、声を出すことを強く拒むように閉じていた。

王子は女の掌に触れた。証束は、設えのない魔法のように反応した。彼の指先が女の皮膚に触れた瞬間、部屋の色がゆっくりと抜け始める。木の床は灰色になり、窓の光さえ薄い帆布のように感じられた。心地よいというべき感覚が、同時に鋭い切断のように王子の中を走った。

女の胸の奥から、光の糸が絡まりながら立ち上がる。糸は淡い藍と鉄色に混ざり、屋根を裂く夜風のように庭に向かって伸びていく。それらの糸に沿って、王子の目には記憶の映像が再現される。子の小さな足、燃えた布、軍服の袖の冷たさ。女の唇から出てくる言葉の残響が、王子の内側で映像として鳴った。

「ハル……あの夜、男たちは──」

女は震える口許で名前を吐いた。王子はその名を聞いた途端、心の中で自分の家の食卓で呼ばれた呼び名を探した。父が寝室で言いかけた言葉、彼らが夜に決めた約束の一つが、わずかに揺らいだ。だが手のひらに残る糸は、より強く引かれていく。

マルは木の板に向かい、筆を走らせる。彼女の文字は早く、確かだ。王子の視界に映る女の記憶が聴覚と香りまで伴って迫るたび、マルは息を整え、言葉を定着させてゆく。証束は露出した真実を刈り取り、マルの筆先に糾合させた。

だが綴られるたび、王子の札が熱い砂のように崩れていくのを感じる。最初は札の割れ目の位置が曖昧になり、次に札の裏に小さく彫った父の名が影を落とす。王子は喉に穴が開くような渇きを覚え、目の下の眠痕がじりじりと疼いた。

「まだ、いいですか」マルの声はいつしか祈りのようになった。

王子は僅かに首を振った。糸は終わりを向かい、女の映像は最後の一枚の断片を吐き出す。女の手に握られた小さな丸い金属片、そこに打たれた紋は見たことがあった。王子の脳裏で何かが光り、はっとする。だが掴もうとした瞬間、その閃きは薄紙のように裂けて消えた。残ったのは金属片の冷たさだけだ。

筆が床の上で止まる。マルが息をついたとき、部屋の色はゆっくりと戻った。女は肩を震わせ、瞳の中の光を確かめながら小さく息を整える。王子は木の札を見下ろし、そこに空白が増えているのを感じた。書き付けるべき言葉が、どこかへ消えた。

「成功は、成功よ」マルはポケットから小さな巻紙を取り出して王子に差し出した。「これで彼女の証言は物理的に残せた。公に出せば救済は速い。しかし──」

マルの言葉はいつもより濁っていた。王子はその濁りを皮膚で感じた。救済が速い。救済が速いと何が起きるか。彼は過去の場面を思い出そうとしたが、つかめない。代わりに、女の手の中で光った金属片の紋が浮かんで離れない。

「公に出せば、彼女は娘を取り戻せるだろう」マルは言った。「だが私たちが以前に公表したときもそうだった。救いの声が大きければ大きいほど、彼らは、制度は、より多くの“回収”を始める。証を武器にするほど、燔の配給は増え、夜に捕らわれる者が増える——」

その言葉が終わるやいなや、王子の足下で風が窓を揺らし、紙片の端が鳴った。王城の外では、朝の鐘が一つ、低く鳴った。それは侵略や祝祭の鐘の音ではなかった。音は長く、じりじりと心に焼きつくようで、王子はその音を聞きながら、自分が何を守ろうとしているのかを確かめようとした。守る対象は、人の顔や名ではなく、選択そのものなのだろうか──そんな貧しい思考がぷつりと切れる。

「なら、どうする?」マルは続けた。「証録は増える。だが出すか、留めるかの選択は、私たちだけのものではない。それを見た民の反応、神殿の仕組み、軍の動き——全てが連鎖する。私たちの出し方一つで、死者の数が変わることを覚えておいて」

その瞬間、廊下の端で物音がして、もう一人の仲間が走り込んできた。短い刃を携えたその男、リンは額に汗をにじませ、手に紙切れを握りしめていた。紙の端には墨で大きく「増配」と書かれている。彼の目は興奮と恐怖で奔っていた。

「見つけたんだ、王城の配給帳だ!」リンは息を切らしながら言った。「具体的な数字、燔の配給が先月から急増している。しかもその配給先名簿の一部に、民間の救済施設の名が混じっている。つまり――救済を装って回収している。公にしたとき、それが表面化すれば、取り戻せたはずの者たちが…逆に増やされる。だが、これを暴けば、上の連中の名が出る。神殿の監察章が散りばめられている」

紙切れを渡される。王子の指は震え、紙に書かれた数列が小さな波紋となって目の前で揺れる。最初に見たのは、配給数の跳ね上がり。次に、配給帳の隅に押された認証の印があった。それは見覚えのある紋に酷似している。王家の簡略印章と、神殿の官印が重なっていた。

王子の口から、小さな声が漏れる。「王権と神殿が——」

マルは紙を受け取り、印の部分を指でなぞった。指先に