夢葬高校のプロトコル

夢葬高校のプロトコル 第7話「第六章 旧校舎の実習室」

保存されていたのは、匂いのない時間だった。廊下を埋めていた埃と蛍光灯の微かなちらつきは、録画ファイルから再生された光そのもので、古い時間が薄く透けて見えるだけだった。ミツルの端末が示す立体地図は、現実の旧校舎の平面図を三次元の層に重ねていた。だがその北は常に逆を向き、僕たちはそれを「故障」と片付けることができなかった。ミツルはそれを直そうとしなかった。手を止めて、ただ端末の表示を眺めていた。

保存されていたのは、匂いのない時間だった。廊下を埋めていた埃と蛍光灯の微かなちらつきは、録画ファイルから再生された光そのもので、古い時間が薄く透けて見えるだけだった。ミツルの端末が示す立体地図は、現実の旧校舎の平面図を三次元の層に重ねていた。だがその北は常に逆を向き、僕たちはそれを「故障」と片付けることができなかった。ミツルはそれを直そうとしなかった。手を止めて、ただ端末の表示を眺めていた。

「白い校庭は、上下を裏返すんだよ」ミツルは小さな声で言った。彼は声を低くする癖がある。眠れない四日目の目の下に、目に見えない膜が張られているみたいだった。

「どういう──」と僕が訊く前に、端末の地図が点滅した。保存夢の接続準備が整った合図だ。接続には対象者の許可が必要なはずだが、保存された実習のファイルは学内のサーバに残されていた。鷺沼の署名と「検証済み」という赤いスタンプ。僕らは許可の代わりに、記録そのものに接続することを選んだ。

「七分だよ。忘れてないよね?」ナギが僕の腕を掴んだ。彼女の掌は熱く、静脈が薄く浮いている。同期役として合わせるのはいつものルーティン。僕は煙のような不安を飲み込んで頷いた。七分という窓はいつも短すぎるが、鷺沼の残した時間制限はここでも有効だ。

接続が完了すると、世界は水を被ったように音を失った。僕の視界は白い点描に引き裂かれ、次の瞬間には旧校舎の実習室が目の前に広がっていた。床はワックスで磨かれたように光り、白い実験台が整然と並び、その上にいくつものヘッドセットが置かれている。壁には参加者名簿のプレート。金属板に刻まれた名前の列の中に、僕の名前とユラの名前が並んで灯っていた。鷺沼の署名もあった。文字はゆっくりと、時間の上に落ちている。

「ここにあったんだ」ナギの吐息が近い。彼女の目が瞬きもしないほど集中していた。僕はカメラのように部屋をなめ回す。監視カメラの録画映像が空気に溶け込み、遠いスピーカーからは実験開始を告げるチャイムが、鮮明に鳴った。あのチャイムだ。幼い頃から聞くたびに頭痛がした音。序章で感じた異物感が、波のように胸を押した。

チャイムが三度鳴った。三つのノイズが僕の胸の奥で振動し、それに合わせて映像が切り替わる。画角の端に、子どもたちの影が並んでいた。小さな体が白いリストバンドを嵌められ、番号で呼ばれている。鷺沼はゆっくりと前に出て、まるで実験の説明をしているように見えた。だが彼の言葉が僕の耳に届くより前に、彼の口調は冷たくなった。

「被験体は『状態番号』で呼ぶ。個人名は不要だ。名前は治療対象のノイズに他ならない」

彼の声に、僕の胸が攣った。名前を奪われるという行為は、人格を数値化する入り口だった。白衣の端に付いた赤い印が、鷺沼の合理主義を表している。彼は救済について語った。苦痛を減らせるのなら、どれほどの記憶を削っても構わない、と。

映像は過去と現在を同時に見せる。小さなユラが笑う横顔、何かを握りしめている指。ナギが見つめた先にあるのは、古い写真だ。三人の子どもが並んでいる。僕、ユラ、そして顔を黒く塗りつぶされた第三の子。写真の端に、鉛筆で「3・1・7」と三つの数字が違う筆跡で書かれている。ユラの筆跡はしなやかで、別の筆跡は乱暴で、三つ目はやけに繊細だった。三つの人格。三つの主張。

「これ……」ナギの声が震える。「ユラが。三人それぞれが、自分で数字を書いたんだ」

ミツルが端末の地図を拡大する。保存夢のファイルは時間軸の上に接続点を撒いていた。接続点には番号が振られている。3、1、7。僕はなのに、どこかで違和感を覚えた。数字が並んでいるのは、接続順に見える。でもミツルは首を振る。

「接続順じゃない。これが示しているのは──安全な切断経路だ」彼は言うと、表示の北を逆にしてみせた。「北が下に来ると、3→1→7で結ばれた道が現れる。白い校庭では、上下が反転する。ミツル、これをずっと『故障』って言ってたけど、違う。白い校庭の仕組みを示してるんだ」

僕の頭の中で、点と線が繋がる。三つの数字は、実験を安全に終わらせるための順序だった。もし順を間違えれば、断夢は対象の人格を切り落とす。それはユラの一部を消すことにもなったのだ。幼い僕が慌ててその場を引き裂いた映像が、再生され始める。

ライブ映像ではない。保存された体験の再現だが、感覚は痛みを伴っていた。幼い僕が、まだ指の先が震えるほど弱い断夢を使う。鷺沼の補助器具が暴走を始め、夢葬の繋がりが収縮していく。ユラの声が叫ぶ。「しんちゃん!」その呼び名は、僕だけに向けられたものだった。愛情でも恋慕でもなく、同じ空間で育てられた子どもが互いを呼び合う匂いだった。ユラは僕の幼名で呼んだ。僕は彼女の呼び名が、単なる親しさの印ではなく事実関係の証拠であることを、その瞬間に理解した。

断夢は刃のようだった。幼い僕は必死で三つの繋がりを切り、ユラは引き離された。接続が破断されると、夢葬は暴走した。映像の中の夢空間は裂け、白い校庭のような法則が暴走して、たくさんの声と破片が空へ吸い込まれていく。僕はただ一つのことを覚えている。ユラが消えかけるとき、僕は叫んだ。「ごめん!」それは謝罪でも懺悔でもなく、ある意味で命乞いの声だった。

保存夢は、その後の処置もすべて映していた。鷺沼は冷静に指示を出し、手術台のような装置のスイッチを押す。僕の首元に、何か細い輪が当てられた。手が過ぎった瞬間、映像の色が一瞬だけ黒く沈む。そこから僕の記憶は破砕されたかのように飛び跳ね、欠落が生まれた。保存記録はその欠落を「封印処置」として説明している。封印は成功した、と彼らは言った。だが保存映像の最後には、技術者の一人が眉をひそめ、計器を睨んでいた。その数値が赤く点滅し、彼は低く呟いている──「封印は不安定だ。独立しうる領域が残っている」。

ナギが僕の肩を掴んだ。彼女の顔が近すぎて、今まで見えなかった網目のような感情が読み取れる。怒り、悲しみ、そして何よりも恐れ。彼女は僕の沈黙を許さなかった。

「しん。あなたがやったんだよね。ユラを切り離したって」彼女は平静を装って言う。だがその瞳は鋭い。僕は肯定も否定もしなかった。ただ、幼い自分の手がどうしても離れなかったことを思い出していた。あのときの自分は選ばなければならなかった。誰かを切ることで、他の誰かを守る。選択を返すことはできなかった。

「償うことと、勝手に彼女の未来を決めることは違う」ナギが低く言った。言葉は薄く刃となって僕の胸を切り、同時に冷たい救いも運んだ。謝るだけでは終わらない。被害を与えたと認めながらも、今あるのは彼女に選択を返す権利を取り戻すことだ──という、古くて新しい原理。

保存夢の映像は、さらに深い層へと誘った。実験室の片隅に置かれていた鞄が、床を突き抜けるように沈んでいく。ナギが何気なくつぶやいた台詞が、思いもよらぬ意味を持って戻ってきた。「重いものほど落ちた場所を覚えている」彼女は、その鞄に手を伸ばし、中を覗く。そこにあったのは、ユラが三度に分けて差し出した紙切れだった。彼女は自分の記憶を小分けにして、誰かの手に託していた。

紙切れの一つには、幼い三人の写真があ