夢葬高校のプロトコル 第5話「第四章 感情の重さ」
夢の教室は、時間の薄皮を何枚も重ねたように透けていた。窓外は昼の校庭だが、地表がなく、薄いガラスの上に雲が溶けている。蛍光灯は夜の星座になり、天井の風は紙をめくる音しか立てなかった。角の掛け時計は欠けた月を示していて、三日月が少しずつ欠けていく――七分の残滓を静かに削っていた。
夢の教室は、時間の薄皮を何枚も重ねたように透けていた。窓外は昼の校庭だが、地表がなく、薄いガラスの上に雲が溶けている。蛍光灯は夜の星座になり、天井の風は紙をめくる音しか立てなかった。角の掛け時計は欠けた月を示していて、三日月が少しずつ欠けていく――七分の残滓を静かに削っていた。
「行くよ、シン。時間はあまりない。」
ナギは、制服の上から夢の薄布を引き裂くようにして歩いた。足元に散らばる黒い制服の欠片が紙屑のように舞い、彼女の影をちらつかせる。手首に巻いた同期リングの表示が、現実側の脳波と同調してピクピクと震えている。一歩ごとに、ナギの肌に小さな静電が寄ってくるのをシンは見逃さなかった。彼女の能力は、触れたものに夢主が隠した感情の「重さ」を付与する。だが、重さは奪うものではなく、顕在化するだけだ。どこかで誰かが抱えた痛みを、目に見える塊に変える作業――だから危険でもある。
ユラの鞄は、教室の左端、消えかけの座席に置かれていた。いつの間にかそこへ滑り込むように置かれたその鞄は、表面に雨の跡がついていて、濡れているはずの布が乾いた静けさを放っていた。シンは否応なく幼い頃の自分を思い出す。それは断片で、バラバラとした映像だけだったが、鞄を見るたびに胸の奥の何かが薄く疼いた。
「持ってみる?」
ナギが指先で鞄の金具に触れる。彼女の目は真剣で、同時にどこか躊躇があった。シンは首を振ろうとしたが、それより先にナギが手を離した。小さな溜息が、夢の空気に音符のように残る。
「行くよ。」ナギは低く言って、鞄を両手で抱え上げた。
普段なら、鞄は軽く、肩に掛けられる程度の重さしかないはずだ。だがナギの指先から伝わるのは、鋼のような落下重量だった。床板に足を置いた瞬間、座席の下に亀裂が走り、教室の床が沈み込む。鞄は沈むどころか、床を突き破りながら深く深く滑り落ちていった。床の奥からは、砂のような細かい記憶の粒が舞い上がり、空気が一瞬甘くなった。
「重い……っ」ナギの声が震える。彼女の額に汗が浮き、まるで引力に引っ張られるように足首が床に吸いついた。夢の物質は、重さを与えられると現実の物理法則すら引き連れてくる。ナギが増やしたのは、ユラが鞄の底に隠していた「守るための重さ」だったのだ。守りたかった何かは、重さとして形を取り、床を割った。
シンは無言で鞄を見下ろした。床のひびの隙間からは、三つの小さな箱が、ひしゃげた花のように覗いている。箱の蓋には手書きの数字がある――3、1、7。ナギが震える手でその一つを拾い上げ、指先に光る埃を払う。箱は想像以上に重く、指が食い込むように赤く温かった。
「覚えてた、誰かを守るために、記憶を分けたのね」ナギは呼吸を整えながら言った。その声の先には、苛立ちと安堵が混じっている。彼女はシンを見た。シンは目を逸らした。昔からそうだ。重要なことを訊かれると、シンは言葉を飲み込み、理屈で塗り固めようとする。
「彼女が自分の記憶を分けて隠した。三度に分けて」ナギが箱の一つを開ける。中からは、細い紙の断片が折りたたまれて出てきた。文字は透けるように薄く、臭いは湿った古写真の匂いだ。紙片一枚は、夢の中でしか伝わらない何かを描いていた。小さな手が、もう一つの小さな手を押しやっている絵。押しやられた方の手に、顔の輪郭だけが描かれていない。
「守るために分けた、というのは――」シンが口を開けると、胸の内から、幼い自分がぐっと顔を上げる感覚がした。箱の中の一つが、彼の胸にこびりつくように熱かった。だが思い出を読み取ることはできない。夢の中の記憶は象徴で現れる。だから彼らは推理するしかなかった。
「三つに分けたってことは、誰かを守るため――あるいは、誰かから隔てるためかもしれない」ナギが呟く。彼女は紙片を左右に揺らし、黒いしみが子供の絵の輪郭に浸透しているのを見ていた。しみは顔の代わりに塗られていて、まるで誰かを意図的に消したかのようだった。
背後で、教室の空気がざわつく。薄い制服の帯が揺れ、床のひびからは記憶の細片がぼろぼろと落ちる。その端を縫うように、夢の警備員が姿を現した。人形のように無表情で、白い折れ紙で作った兵隊の列。彼らは鷺沼が作った夢の守り手で、接続された悪夢の境界を守るために姿形を与えられたものだった。動きはぎこちなく、だが確実に重力を伴っていた。
「ここから先は行かせない」その一体が、単調な声で言った。口元は動かないのに、言葉は夢の床に深く沈められた。兵隊が一歩踏み出すと、床の亀裂が縫い合わされるようにふさがり、箱の一つが押しつぶされそうになる。ナギは咄嗟にそれを抱き寄せ、押し戻した。
「重さを増したからって、足止めに使う気?」ナギが睨む。彼女の指先は震え、だが動きは速かった。兵隊の胸元に生み出された鎧の継ぎ目が、感情の重さを敏感に吸収する。ナギは躊躇なく、兵隊の首元に触れた。触れた瞬間、彼女は自分の中にある誰かの迷いや後悔を察した。それはユラのではなく、作り主である鷺沼の、一枚の理想が形になったものだった。夢の守り手は鷺沼の「合理」の断片である。だからそれは、罪悪感を感じない重さを持っていた。
ナギは感情を「付与」する。彼女はユラの鞄から取り出した箱に、その守り手が持つ乾いた理想の重さを押し付けるように移した。箱はさらに重くなり、指が滑るほど沈んだ。兵隊はバランスを崩し、紙の関節が裂けるようにして崩れ落ちた。夢の床は、その崩壊の衝撃でまた少しずつ裂け、内側から別の場面がのぞいた。
だが、代償は目に見えていた。ナギの顔色が一瞬で青ざめる。彼女の動きが鈍くなり、呼吸が浅くなった。感情の重さは付与先にも還ってくる。ナギは他人の感情を動かす度に、ほんの小さな分だけ自分の中心がズレる。夢の重さに引きずられ、現実で筋肉が動かなくなる可能性はいつも脅威としてあった。だから彼女は慎重で、同時に怒りを秘めていた。
「無茶はしないでよ」シンは低く言った。彼の声は、教室の中の重力に引かれて落ち着くように響いた。ナギは一瞬だけ彼を見て、口元に小さな笑いを乗せた。
「黙ってるから腹が立つんでしょ、シン。あんた、何か抱えてるんでしょ。全部自分のせいにして、被害者ぶるのはもういい加減やめてよ」彼女の声は厳しく、同時にどこか寂しげだった。夢は人の感情に敏感だ。ナギが無理にシンの殻を剥がそうとすれば、シンの中に封じられたものが暴発し、夢全体の重さが倍になる。彼女はそれを知っている。だから、言葉の刃を引き下げる。
「無理はしない。聞きたいときだけ、話すよ」シンは短く答えた。その場の空気が変わる。ナギは黙り、箱をもう一つ開ける。中から出てきたのは、色あせた写真だった。角が曲がり、埃にまみれている。写真の中の景色は旧校舎の前庭で、三人の子どもが笑っていた。二人ははっきりわかる――ユラとシンだ。三人目は顔を黒く塗りつぶされている。
「これは……」ナギの声が震える。シンは何も言えなかった。写真を見て、胸の中にコツンと固いものが当たる。写真の中の自分は小さくて、笑っている。ユラも笑っている。三人目の輪郭だけが、何かに押しつぶされるように黒く吸い込まれている。夢は象徴を使って語る。顔を黒く塗り