夢葬高校のプロトコル 第2話「第一章 七分間の教室」
接続が切れてから、ちょうど七分が経っていた。時間はあっさりと現実の側に戻ってきて、教室の蛍光灯の明かりは何事もなかったかのように規則正しく点滅している。だがその安定は、シンの胸に張り付いたひんやりとした違和感を消すことはできなかった。
接続が切れてから、ちょうど七分が経っていた。時間はあっさりと現実の側に戻ってきて、教室の蛍光灯の明かりは何事もなかったかのように規則正しく点滅している。だがその安定は、シンの胸に張り付いたひんやりとした違和感を消すことはできなかった。
保健室の簡易ベッドに横たわる真壁トオルは、まだ体を縺らせるように震えていた。額には冷たいタオル、片手は誰かの腕を掴んだまま。目は開いている。だが、会話の端々で言葉がこぼれ落ちる。家の住所、好きなマンガのタイトル、夕食の予定――そうした断片は正確に出てくるのに、一番親しかった友人の名前だけが、舌の上で泡のように潰れて消えた。
「……誰だっけ?」トオルが呟いて目を泳がせる。クラスメートの一人が近寄り、何度も名前を呼んでみせる。トオルは必死に思い出そうとするが、指先が震えるだけで、空白は戻らない。見るからに恐怖と困惑が混ざり合った表情だ。
シンは隣でそれを見ていた。観察者として身を守るはずの距離は、この時ばかりは無力だった。欠落の質が、自分の幼い頃の白さと同じ種類だったからだ。何度も訓練で学んだ理屈は、目の前にいる友人の痛みに微かな救いしか持たない。胸の奥で、ある一つの感覚がまた薄くなるのをシンは感じた。先ほど切断の感覚を働かせた――断夢を行使したからだ。接続一回につき一度、刃を使った代償として彼の過去の一つが薄くなる。それは誰にも言っていない、自分だけの秘密の代償だった。
放課後の情報科学室は、青いスクリーンの光だけが息をしていた。ナギは肘をついて顎を支え、いつもの口調より抑えた速度で喋る。ミツルは小さな箱から伸びたワイヤを机に繋ぎ、端末を立ち上げると静かに表示を重ねていった。監視カメラの映像、出席データ、夜間の睡眠ログ――三つのレイヤーが空中で重なり、微かなずれを描く。
「トオルのログは接続中も一応安定してる。だが監視映像の同フレームに、どのデータにも乗らない“何か”がある」ミツルの声は平坦だが、その指先はわずかに震えている。空中の座席図に、白い影が重なっている。それは物理的な座席番号の範囲外に見えるが、彼らはそれをすでに「十三番目」と呼んでいた。座席の数が三十五ならば十三はただの番号になりそうだが、ここで示されているのは「欠落を固定するための座標」だとミツルは説明する。出席簿にも監視録にもIDにも一致しない、ログの境界に残る微かな残像──複数の夢層をつなぐために置かれた“結び目”のようなものだ。
ナギが画面を覗き込み、歯を噛みしめる。「監視には映っていないのに、フレームが震える。椅子の背が一拍だけ揺れて、鉛筆が落ちる。理屈じゃ説明がつかないわ」
「で、そのノイズは他の生徒の脳波の断片と一致してる?」シンが問う。言葉は冷静を装っているが、内側は波立っていた。断夢を再び使えば、また一つの過去が曖昧になる。使うべきか、止めるべきか。選択の重さは、今自分が嫌というほど知っている。
ミツルの端末がスペクトルを拡大し、ノイズの山が三つの規則的なピークを描く。「一致は断片的だけど確かに含まれている。あるいは、別々の脳波の断片が—境界の上で干渉してる。ここに残るのは個人の痕跡じゃない。複数の夢を“固定”する位置だ。接続の架け橋になってる」
ナギは大きく息を吐いた。「つまり、あの座席は本当に“誰か”が座ってたって意味じゃない。座標だ。夢を縫い合わせるための針目」
シンの視線は、先ほど保健室で聞いたトオルの失語に戻った。友人の名前だけが消えている。欠落の輪郭は情報の欠如というより、存在の輪郭が削がれるタイプだ。もし十三番目が結び目ならば、そこを誰かが操作すれば、一人の自己認識の輪郭を綴じ込めたり削ったりできるはずだ。鷺沼が言っていた「治療」の論理が、ここで現実味を帯びる。
「これが意図的なら、誰かが──誰かたちがやってる」ナギが低くつぶやく。「だけど、目的が何かは分からない。苦痛をなくすのか、誰かの輪郭を固定するのか」
ミツルは吸い込むように画面を拡大した。睡眠ログには、失踪中の天城ユラのIDがふと現れる地点があった。登校していないのに夜間のログだけが更新されている――それは単なる技術的なバグなのか、意図的な監視の跡なのか。端末はそれを淡く示し、でも決定打にはならない。
シンは手の平で椅子を押し返すようにして立ち上がった。胸の奥で、幼い頃の小さな影の声がまた鳴る。「ここから出して」――あの声は、接続の中で彼が見たものだ。今はもう過去の断片となっていて、はっきりとは触れられない。断夢を使ったとき、胸の中の何かが確かに薄まった。触れたくない記憶が一つ、また景色の奥へ沈んでいくのを感じた。
「私たちで、調べる」ナギが言った。決意が滲む。連絡網を回し、被害者の家族や当日のログを洗い、監視カメラの未公開フレームを引き出す。学校側の公表では事故扱いだろうが、隠蔽を前提とするならデータの痕跡はどこかに残る。三人の役割は明確だった。ミツルはデータを可視化し、ナギは夢の物質性を探る。シンは――同期役として、そして断夢の刃を引き受ける者として、判断を下す。
だがシンには告白できないことがあった。断夢は接続一回につき一度だけ使える。先ほどの接続で彼はすでに一度使った。次に使うなら、また一つ、自分の過去が薄くなる。誰の前でも言えない重みが、喉に詰まる。ナギにすべてを任せればいいのか、あるいは自分がもう一度刃を振るべきなのか。どちらを選んでも、誰かの輪郭が変わる可能性がある。
「次は誰の夢に入る?」ミツルが訊いた。画面の片隅で、十三番目の座標が小さく脈打っている。目を逸らすと、そこに触れていた感覚が現実にも波紋を落とした。ユラのログ、トオルの欠落、監視の歪み――線は一本にまとまろうとしていた。
ナギが視線を上げると、その瞳はいつものくらい強い。だがそこに一瞬、迷いが浮かんだ。「私たち、ちゃんと許可は取る。強引にはやらない。学校の救命権限は、トオルが本当に危険な状態になったときだけ教員側の例外になる。今は違う。本人の同意と、同期の準備を整えてから──」
シンは小さく頷いた。ルールを守ることでしか、彼らはこの夢の網目に切り込めない。だが同時に、ルールはいつでも破られうることを、この日は教えていた。欠片が一つ消えたことを知らないまま、彼は仲間と共にデータの海へ身を沈める決意を固めた。外の世界では夜はまだ柔らかく、校庭の蛍光灯が静かに道を照らしている。だが彼の中の小さな影は一度こちらを振り返り、微笑むことも叫ぶこともせずに、ふっと消えかけた。