夢葬高校のプロトコル

夢葬高校のプロトコル 第1話「序章 眠りの予鈴」

午前十時二十一分。綴環高校二年三組の教室はまだ朝の残響を抱えていた。窓の外の光が白く透け、長机の上で消えかかったチョークの粉が淡い霞となって舞う。教師の声が対数表の上で淡々と跳ね、鉛筆の先が罫線をなぞる規則的な音が空気を満たしていた。いや、満たしているように見えただけだ──その均質さに、ほんの一拍の狂いが差し込んだ。

午前十時二十一分。綴環高校二年三組の教室はまだ朝の残響を抱えていた。窓の外の光が白く透け、長机の上で消えかかったチョークの粉が淡い霞となって舞う。教師の声が対数表の上で淡々と跳ね、鉛筆の先が罫線をなぞる規則的な音が空気を満たしていた。いや、満たしているように見えただけだ──その均質さに、ほんの一拍の狂いが差し込んだ。

真壁トオルが前屈みになり、額を机の角にこすりつけるようにして静かに沈んだ。最初はただの居眠りだと誰もが思った。だが教師が名前を呼び、問いかけても返答は戻ってこない。隣の生徒が肩を叩くと、トオルのまぶたがゆっくり閉じ、呼吸の合間に小さな震えが走った。

「救急対応を呼べる人はいますか!」森田担任の声が、クラスの空気を切った。生徒の一人が端末を取り出して校内規約に従い記録を起動する。だが、その映像を見た瞬間、三枝シンは別の違和感を拾った。保健室に運ばれた先ほどの教室の監視映像に、見慣れない余白が映り込んでいたのだ。

画面には確かに、いつもの生徒の列の隅にもうひとつ淡い輪郭があった。出席簿は三十五名を示すのに、映像は人までは映していないが明らかに「もう一つ分の空間」を抱えている。その輪郭は座席を指す数字とは関係ない。教室の「自己認識」からすり抜けた一つの抜け殻──生徒たちはそれを形容する代わりに、古い校舎の言い回しを借りてぽつりと呼んだ。

「十三番目の空席だな……」

冗談にも聞こえたが、その言葉はクラスの背筋を冷たくした。十三番目。番号ではない。誰かの名前がそこから抜け落ちたとき、人はしばしば簡単な符号で欠落を隠す。三枝はその呼び名を内側で嚙みしめた。欠けたものを軽い言葉にしてしまえば自分も傷つかない。そうやって彼は今日までやってきたのだ。

水城ナギがシンの側まで歩み寄ってきた。鮮やかなポニーテール、明るい顔。だがいまの彼女の目は戦場の指揮を待つように鋭かった。ナギはシンの同期役だ。シンが夢の内部で歩くためには、現実側で波形を合わせる同期が必要になる。ナギの小さな手が、ためらうことなくシンの肩に触れた。

「映像、見た? トオル、目が覚めたときに『友達の名前が一つだけ出てこない』って言ってた。これ、ただの一時的な失神じゃないよ」ナギの声は平静を装っているが、中身は揺れていた。

シンは画面の縁を凝視し、言葉を選んだ。「ログに微細な断裂がある。出席データと映像の境界がズレている。夢と現実の重なりが局所的に発生している可能性が高い。対処の優先は本人の内部だ」

綴環高校のプロトコルは厳格だ。レム・リンクで他人の夢に入るには本人の明確な同意、現実側の同期役、そして七分間という上限が必要だ。上限を超えれば神経に不可逆の影響が出ることがある。だが今回、教員の判断で緊急救命の手続きを踏み、保健室でトオル本人の署名を取ることになった。署名があることは、ルール上の最低限の線を満たす。だが三人とも知っていた──形式的な承諾があっても、夢の中は予想外で満ちていると。

保健室の明かりは柔らかかった。トオルは薄く開いた瞳でシンたちを見上げ、震える指でサインをした。文字は小さく揺れていたが、確かに本人のものだった。「覚えていないけど、知りたいんです。お願いします」そんな声を絞り出すように言った。その願いと署名で、接続は正式に許可された。

ミツルはまだ現場にいなかった。久遠ミツルは校内の記録係で、夢の地形を立体化する端末を扱う。それがあると夢の構造を地図のように可視化できるのだが、今は外でデータの整合を取っているという。二人は簡易端末室に通され、ヘッドバンドを装着した。白いパネルに脳波の波形が浮き上がり、スクリーンに幾何学的な門が開く。残り時間は画面の隅で欠けた月のアイコンで示される。ひと欠け、そしてひと欠けが残像のように減っていく。

「七分だ。中での負傷は現実に反映される。判断ははやめに」ナギが呟いた。彼女の手は冷たくなかったが、声は確かに重かった。

そして扉が閉じた。

夢の教室は現実の教室を模していたが、どこかが鏡でずれていた。窓の外では無数の黒い制服が紙片のようにひらひらと降り続けている。制服は落ちては消え、消えてはまた降る。黒板には赤いチョークで乱暴に書かれた一行が震えている。

「次は、十三番目を起こす」

その文字が光の裂け目で踊った。教室の座席は、時間に合わせるように一つずつ消えていった。およそ一分ごとに、どこかの席が淡く溶けて形を失う。消えた席の机の引き出しからは、濡れた答案用紙が押し出されるように現れた。紙は濡れていて、鉛のように重く、ページの端には誰かの指紋が滲んでいる。罪悪感の重みが、物質となって詰まっていた。

黒い群れは「忘れられた側」のように迫る。ひらひらと舞う片鱗が風を切り、集団の端はまるで意志を持った塊のように形を変えて襲いかかってきた。ナギが手を伸ばし、床に散らばった教科書を掴むと、たちまちそれらが重くなった。ナギは感情の「重さ」を物体に与えることで、夢主が隠した感情を可視化できる。重みが増すと物は落ち、進路を塞ぐ。彼女の額に汗がにじむ。

群れが一つ二つと迫る。シンは胸の中に冷たい矢を感じながら、断夢を呼び出した。断夢は夢の構造を断ち切り、接続された侵入や具現化を現実へ追い出す力だ。だが使い方を誤れば、夢主の人格の一片を切り取ってしまう。何より、使用するたびに自分の記憶が一つ薄れていく。まだ一度もそれを公言したことはない。誰にも知られたくなかった代償だ。

シンは刃のように世界を引き裂くつもりで、言葉を吐いた。断ち切る感覚が胸の奥で荒い振動となり、教室の空気が裂けていく。黒い群れの先端がゆっくりと形を崩し、まるで枯れた紙片が風に吹かれて舞い上がるかのように消えた。勝負はついたように見えた。

だが直後、トオルの身体が小さく痙攣した。片方の手が鋭い痛みに引き攣り、保健室で見せた静かな顔がゆがんだ。シンは吐き気に似た嫌な予感を覚える。断夢が追い出したのは侵入の群れだが、その刃はトオルの内部にも触れていた。現実の神経に鋭い電撃が走り、トオルは顔をしかめる。

「痛い……」トオルが呟き、指先で胸を押さえた。胸の奥にぽっかりと穴ができたようだという話は現実味を帯びた。シンは初めて、自分の力が人を救うだけでなく、傷つけることもあるのだと知った。勝ったのに救ったとは言えない。守ったのに代償を与えた。心が固く締まる。

残り時間の月は、欠けたままではあるが、なぜかもう一つの輝きを放っていた。教室の最後の座席に、幼い姿が座っていた。トオルの友人の顔ではない。小さな少年──幼い頃のシンがそこにいた。細い肩に古い制服、青い目がこちらをじっと見つめ、唇が震えながら言った。

「ここから出して……」

同時に、画面の月表示が静かに消えた。七分の時間制限は、ここで明らかに越えられていた。シンの胸が凍る。内側で鳴っていた警報の音が大きくなる。夢の外側では保証されているはずのルールが、今、ゆらいでいる。始まったものはもう止まらないように思えた。時間は、まだ続いている。