雪鎖の巫女と百鬼城 第4話「第三章 山猟師の「帰れ」」
吹雪が町を引き裂くように降り続ける朝だった。白綱郷の屋根の縁からは、誰かが指で引いたように真っ直ぐに落ちた雪の列が並んでいた。ユキネは肩に掛けた藁蓑を握りしめ、左腕の感覚の薄さを何度も確かめる。指はまだ鈍く、冷たさが肘へと這い上がる。結び断ちを使った夜から、肉の奥が氷になってしまったようだ。温めれば戻るという言葉が、いつもより遠く感じられた。
吹雪が町を引き裂くように降り続ける朝だった。白綱郷の屋根の縁からは、誰かが指で引いたように真っ直ぐに落ちた雪の列が並んでいた。ユキネは肩に掛けた藁蓑を握りしめ、左腕の感覚の薄さを何度も確かめる。指はまだ鈍く、冷たさが肘へと這い上がる。結び断ちを使った夜から、肉の奥が氷になってしまったようだ。温めれば戻るという言葉が、いつもより遠く感じられた。
「こっちじゃない。旧道は吹きだまりに埋まってるぞ。お前ら、地図くらい持ってるか?」
声の主は峰アサギだった。短く切った髪を雪で散らし、胸に括った鹿角の矢筒と古い弓を見せつけるように立っていた。彼女の笑いは冷たく、しかし暖炉の火みたいに芯が強い。ユキネは反射的に眉を寄せる。祭りの夜に会った猟師の娘は、神殿の教義とはまるで違う空気をまとっている。
「旧道を通る。城の検問を避けられる。雪が深いときは人の作った道より山の息を読むほうが早いんだよ」とアサギは言った。言葉の端には、彼女が何度も同じ道を踏んだことのある確信があった。
葛葉トウマは黙って地図を閉じ、アサギの方を見た。城主家の少年兵で、鉄輪の護符を腰のあたりに忍ばせている。彼の目はいつもより少しやわらかく、しかし任務の緊張は消えていなかった。ユキネはその表情を見て、胸の中の緊張が少しほどけるのを感じた。トウマは命令で動いているだけではない。何かを秤にかけているように見える。
三人は村はずれの神杭を一つ越え、古い行き止まりの道へと入っていった。軋む木の枝、雪に覆われた石鳥居、そして時折見える、赤い契文を納めた小さな札の端。それらは祭りの喧噪が去った今、冷たく光っていた。ユキネは札に視線を落とすたび、自分の中にある「亀裂」を確かめる。嘘は、雪面に細く入る影のように、決して鮮やかには見えない。だが確かにある。見つめれば見つめるほど、それは蠢く。
「契杭を見て」とトウマが呟いた。言いながら彼は腰から小さな鉄輪を取り出して数歩先の杭の周りに置く。鉄輪は銀色の輪郭を雪に描き、触れた空気をぐっと緊張させる。囲った場所だけ、雪の匂いが少し濃くなるように感じられた。
杭の根元は、普通なら住民の血や米のしみが地面に浸みて凍り付いているものだ。しかし、ユキネがしゃがんで覗き込むと、そこには黒い染みが流れ出していた。墨と膠を混ぜたような光沢の黒。雪は白から墨色へと滲み、まるで地の底から黒い血が湧き出しているように見えた。
「これは……血じゃない」とアサギが鼻を鳴らした。「地下水路の汚れだ。城の方の水回しが壊れたときに出る黒。昔から知ってる。城下であの黒が出ると、家が壊される前触れだった」
ユキネの胸の中に何か鈍い音がした。城の地下水路――それは村の生活を支えるものでもあり、城の掌の中でもある。契杭の下からそれが染み出しているということは、契約が町の生活の基盤と直接つながっている証左だ。ユキネは、目の前の黒い糸を指先でなぞりたくなったが、指は冷たく、恐ろしくて触れられなかった。
「ここだけじゃない」とトウマが続ける。彼は杭を一つひとつ回って確かめながら、唇を固く結んだ。鉄輪に沿って、雪の裂け目が小さく震える。ユキネは視線を落とすと、契文の端の方に、ほんの小さな切れ目が雪目のように走っているのを見た。亀裂は細く、だが確実に契文の中の語を断ち切っていた。
「嘘だ」とユキネは小さく言った。声は雪に吸われるように消えたが、二人には届いた。嘘は契文の「同意」に潜んでいる。何かが、住民が差し出したはずのものを書き換え、代わりに城の意志へと変えている。
「お前の見るものはいつも、町を震わせるな」アサギがぽつりと言った。言葉は冷たかったが、それは責めではなく確認だった。
雪は次第に吹き付けを強め、視界は数歩先が限界になる。三人は肩を寄せ、旧道をさらに奥へと入った。アサギは道の利を知っている。彼女は地面のわずかな盛り上がり、古い松の根、本来なら見えない小さな石垣を足先で確かめながら歩く。真っ直ぐな道に見えるものが、実は複雑に川や段差と繋がっていることを、彼女の足は覚えているのだ。
「ここで止まれ」とアサギが突然立ち止まる。声が、風音の中で鋭く切り取られた。前方の雪面に、薄い皿のような跡が幾つか並んでいる。人の足跡ではない。子どものように小さく、そして周囲の雪よりわずかに白く輝いている。それは雪童の跡だ。
雪童。それは契喰いの残滓が形を取ったものだ。子どものように見えるが、彼らは約束を喰らった痕跡そのものであり、帰る場所を失った魂のようでもある。ユキネは体の奥がざわつくのを感じた。彼らは祭りの夜に見た大鹿とは違う。規模は小さいが、この狭い旧道を遮るように、雪童が列を作っていた。
アサギは弓を肩に掛け、鹿角で作った矢を手にする。鹿角は黒ずみ、長年の手入れで磨かれている。彼女は矢をくるりと回してから、低く囁いた。
「帰れ」
その声は命令だった。だがトーンは冷酷ではない。もっと根源的なもの、指令というよりは帰属の所在を示す命令だった。矢は風を切り、雪童の列へと飛び込んでいく。命令は矢に乗って届く。雪童たちは一斉に向きを変え、まるで引力に呼ばれたように、山へと向かって走りだした。足跡は次第に細くなり、溶けるように消えていく。
ユキネはそれを見て、言葉にならないものが胸に満ちるのを感じた。斬ることだけが救いではない。帰る場所を示すこと、失われた約束が帰れるべき場所へ戻る道筋をつけることも、救いなのだ。彼女はアサギのやり方に反発していた。教義に従って妖異を断じる――それが巫女の仕事だと、いつも思っていた。だが今、雪童が消えていくさまを見ると、ユキネは自分の考えの狭さを悟った。
「矢は一度に何本出せるんだ?」トウマが小声で尋ねる。彼の手は無意識に鉄輪をぎゅっと握っていた。結界は風にさらわれそうに小さく震えている。
「帰る場所がある者には一射で十分だ」とアサギは答えた。「その場所を知らない者には、何本打っても戻らない。お前らは、どれだけの人間に帰る場所を教えてやれる?」
問いはユキネの胸を突いた。彼女は答えが見つからない。指の冷たさがその答えを探す手を止める。
だが道の向こうで、雪の表面が異様に揺れた。黒い筋が雪を割くように走り、杭の根元から見たのと同じ墨が、地の底から湧き上がってきた。墨は流れを作り、小さな川のようになって旧道を横切る。三人は立ち尽くした。雪は黒い帯に呑まれていく。
次の瞬間、墨の集まりが変形した。寒さのせいか、それともなにか別の意思が形を結んだのか、墨は手のような形を取り始める。掌は五本の湿った指を伸ばし、ざらついた黒い感触で空気を掻いた。墨の手は巨大で、谷に向かって押し流すように三人を押した。
「押されるぞ!」トウマが叫び、鉄輪の一つを地面に叩きつける。輪は雪に沈み、その内側だけが別の時間軸に切り替わったように穏やかに見える。だが鉄輪は万能ではない。三つを繋ぐには時間が必要だ。トウマは急いで二つ目の鉄輪を投げ、アサギは矢を構え、ユキネは左手を握り締めた。凍えた痛みが、いつもより強く脈打つ。
墨の手はさらに力を増し、風に乗って雪を押し流した。ユキネは後ずさる足を踏みしめ、心の中で契文の亀裂