雪鎖の巫女と百鬼城

雪鎖の巫女と百鬼城 第2話「第一章 落ちこぼれ巫女の左手」

年越しの鈴の余韻が消えかけた朝、白綱郷は冷えた息を吐きながら静かに戻ってきた。赤い契文を貼られた四つの契杭は、祭りの灯火が消えると同時に雪の上へ冷たく影を落とし、町の人々は家の前で互いに目礼を交わしながら、いつもの冬の暮らしへと折り返していく。その背後で、神殿の女房たちは奉納の残滓を片付け、神札の束を集めて来年分までの配置を整えていた。

年越しの鈴の余韻が消えかけた朝、白綱郷は冷えた息を吐きながら静かに戻ってきた。赤い契文を貼られた四つの契杭は、祭りの灯火が消えると同時に雪の上へ冷たく影を落とし、町の人々は家の前で互いに目礼を交わしながら、いつもの冬の暮らしへと折り返していく。その背後で、神殿の女房たちは奉納の残滓を片付け、神札の束を集めて来年分までの配置を整えていた。

白城ユキネは神殿の裏手、積み上げられた紙片と藍の帳の山の前に立っていた。短く切られた黒髪に雪の粉がのり、左手は軍手もはじくように、冷たさを帯びていた。昨夜――雪祭りの夜に、彼女は禁じられた短刀「結び断ち」を振るい、一頭の異形の大鹿を消した。鹿の腹からは黒い紙が何枚も吐き出され、それがひとつの断片になって彼女の手元に残っている。紙の上に、赤い墨で書かれた文字が黒くにじんでいた。

「巫女とは名ばかりで、神の声も聞けない者が何をする」と、神殿の老女は苦々しく言った。彼女の指はユキネへ向けられた小さな帳面の上で止まる。祭りで起きた異常は、「札貼り役」の不手際として片付けられるべきだった。だがユキネは違う。それを、彼女は知っていた。神の声を聞けない彼女が見るのは、契文の嘘が雪の亀裂として現れることだ。昨夜の鹿が食べていたのは、町人の「忘れたい罪」であり、その紙が肥大化して異形になったのだ。彼女が結び断ちで結び目を切ったとき、鹿はほろほろと霧のように消えた。しかし代償は手元に残った。左手はその場所から冷え続け、感覚をほとんど失っていた。

老女の詰問は長く、罵りと疑問が交互に投げつけられた。禁じ手を使ったこと、神の名を冒涜したこと、町の安寧を危うくしたこと。ユキネは黙ってそれを受け、質問に答えるたびに口の中が乾いた。問いの最後に、老女は嘲るようにつぶやいた。

「結び断ちを使ったのは、あんたの勝手な憶測か。神の秩序を乱してまで、何を救ったというのだね、白城ユキネ」

そこへ、甲高い靴音が石段に響き、城主家の少年兵が一人、静かに現れた。葛葉トウマ。黒い軍袴に鉄輪の護符を小さく携え、瞳はいつもどおり冷たかった。だが今朝はその奥に、いつもの命令で固められた毅然さではない、戸惑いが見えた。

「処罰は城へ報告する。だが、とりあえず連行だけはしない」と、トウマは呼吸を整えて言った。「神殿の決定次第だが、護送は私が――」

老女は一瞬、トウマを睨んで答えを待たなかった。命令は命令だ。だがトウマはその場で肩を動かし、視線を逸らした。ユキネにはそれが「疑問」のように見えた。彼が兵としての立場にあることを知っている。城主の命令は言葉を与える一方で、疑いを許さないものだ。なのに、彼は問いに首を振らなかった。

「神殿で話すことはある」と、トウマは短く告げ、隣に控える汚れた毛襟の下で小さな鎖のように鉄輪を弄った。ユキネはその指先を見て、思わず息を飲む。彼の鉄輪は、契約の境界を一時固定するためのものだ。使い方を誤れば、使用者へ反動が返る。城での命令を優先する立場にありながら、彼はその装置を持ってきていた。理由は、ユキネがただの罪人として扱われるべきではないと感じたのか――それとも、もっと別の何かを見ていたのか。

神殿の尋問は形だけのものだった。老女たちは文書の体裁を取り戻すために言葉を並べ、祭りに訪れた町人たちの安心を回復したがっていた。ユキネは答えを重ねるごとに、左手の冷たさを意識した。そこには温度だけでなく、確かな重みが欠けていた。指先の皺を確かめても、感覚は薄く、遠くで別人の手を触れているようだった。

「この者は処罰に値する」と老女が言い終わると、トウマが「城の裁きを待て」とだけ返し、ユキネを連れて城へ向かった。道すがら、トウマはほとんど言葉を発さなかった。町の路地は祭りの後片づけと同じように雑然とした足跡がつき、雪の上に朱い契文の残りが淡く浮かんでいる。ユキネは自分の左手を袋に入れて守りながら、昨夜のことを反芻していた。鹿の眼は人を追うそれとは違い、餌を求めるだけのものだった。子供を追ったのは本能か礼儀の果てか。彼女がその結び目を切ったとき、何かが大きく動いた。

城の内は石と鉄と古い木の匂いが混じる世界で、契約の台帳は城の帳場に厳重に収められていた。トウマは兵の口元へ小さな命を投げるように、「ここで調べる」とひと言だけ指示し、鍵を得た。帳場の奥には古い帳簿が重なり、羊皮紙の端が黄変している。ユキネはその中に自分の指を滑らせることに緊張を覚えた。契の書は人の運命を記し、代価を定める。名前と年齢、差し出されたもの、受け取った期間。生活の色が、余白の線で書かれていた。

ページを捲るうち、ユキネは血の気を失うような違和感に囚われた。昨夜、鹿の腹にあった紙と同じ記録があるはずの奉納者の欄が、ことごとく白紙になっていたのだ。名前の欄、代価の欄、朱の捺印があるべき位置――そこだけが、まるで墨で拭われた後のように白く、何も書かれていない。トウマは指でその余白をなぞり、眉を寄せる。帳面の端に、ぼんやりと熱を帯びたように残る黒い縁取りがあった。焼かれた痕のようにも見えた。

「この白紙はいつから……?」ユキネの声は、いつもの自信なさげな調子から逃れ、小さな震えを帯びていた。彼女の心臓は、左手の冷たさと同じく、底の冷たさへ沈んでいく。

トウマは目を細め、帳面の重みを感じながら答えた。「焼却記録と同日だ。焼却の──白城サヨの例の書類と、同じ日付が並んでいる」

ユキネの胸が一瞬、鋭く痛んだ。白城サヨ。母の名は、ここで眼にすることのないはずの文字だった。家の壁の裏へしまわれた小さな箱、母がよく縫い物をしていた針山、俺に教えた古い歌――それらが次々と頭をよぎる。ユキネは、何かを握りしめるように左手をポケットへ押し込んだが、そこには暖かさは戻らなかった。

「焼却記録に捺された印は城のものだ。だが、帳面のこの空白はおかしい。こういうのは、単に燃やした後に残った灰とは違う。誰かが故意に写しを消したか、紙自体を抜き取ったようだ」トウマは低く言った。彼の声は冷静だが、そこには同僚としての確かな動揺が混ざっている。城主の印が、何かを隠すために使われた可能性。トウマはそれを言い切れず、帳面を元に戻した。

ユキネは、自分の中で大きな扉が音を立てて開くのを感じた。子供の頃に母がこっそり残した小さな文字の断片が、ぽつりと脳裏に浮かぶ。母は、町を守るために何かをしたのか。焼いたのは自らの手なのか。ユキネは答えを欲したが、同時に認めるのを恐れていた。母を、誰かを裏切る存在の側へと運びたくはなかった。もし母が、町を救うために記録を消したのなら、それは英雄的行為だったのだろうか。それとも、もっと深い何かの一端だったのか。

夜が深まり、帳場からは戻るが誰もいない。トウマはユキネを守るように城の内を案内し、兵の詰め所の前で短く休むことにした。雑音がない代わりに、雪が城壁に当たる音が規則正しく響いた。だがその耳慣れた音は、やがて別の音へと変わっていく。紙が擦れるような、遠い唸り。雪壁の外側から、紙がかさつく音がする。

「外だ」トウマが立ち上がり、手早く鉄輪を取り出した。護符を一つ、また一つと床に置き、その間を古い呪文のよ