雪鎖の巫女と百鬼城

雪鎖の巫女と百鬼城 第1話「序章 雪祭りに来るもの」

白綱郷の夜は青を纏っていた。雪が光を吸い、空気は凍てついた蒼で満たされる。年に一度の雪祭りでは、その青い世界を朱の灯りが切り裂き、軒先の藁灯がゆらりと揺れて人々の影を長くした。町は四つの契杭の周りに集い、箱や皿、折りたたんだ紙を一つずつそっと差し出す。差し出すものは名づけえぬ――忘れたい罪、或いは重さ。誰も口にはせず、祭壇へ預ける習わしだ。

白綱郷の夜は青を纏っていた。雪が光を吸い、空気は凍てついた蒼で満たされる。年に一度の雪祭りでは、その青い世界を朱の灯りが切り裂き、軒先の藁灯がゆらりと揺れて人々の影を長くした。町は四つの契杭の周りに集い、箱や皿、折りたたんだ紙を一つずつそっと差し出す。差し出すものは名づけえぬ――忘れたい罪、或いは重さ。誰も口にはせず、祭壇へ預ける習わしだ。

白城ユキネは裏方として札を貼り、古い帳を仕分ける役目にいた。巫女の家に生まれながら、神の声は彼女に届かない。鈴の音も祝詞の波も彼女の耳を開かず、子供の頃から「声のない巫女」と陰口を叩かれてきた。だが彼女には別の視え方があった。契文の言葉と事実が齟齬を起こすと、雪面に細い亀裂が生まれる――ユキネにはそれが見えた。人に見えぬ嘘の線。嘘は小さな割れ目となり、やがて大きな亀裂へと広がる。そうして契が崩れると、何かが生まれると彼女は知っていた。

祭りは笑いと銘酒の匂いで満ちていた。東西南北に立つ四つの杭は、町ではそれぞれ東が雪崩を止め、南が妖異を祓い、西が飢えを鎮め、北が命令の流れを定めると教えられてきた。だがユキネの目の端に、雪面を走る黒い線が見えた。最初は風の作った模様のように繊細だったが、瞬く間に深く、長く裂けていく。亀裂は杭へ向かい、差し出された紙をひとつ、またひとつと飲み込んでいった。雪が紙を「食う」――胸の奥がぎゅうと締めつけられる感覚が落ちた。

裂け目の端から何かが膨らみ、紙片と布片が層を成して形をなしていった。四本の長い脚、曲がった角、層状の身体。大鹿のようでありながら、体表は記録の残滓でできている。口が開くごとに、器官の代わりに紙が崩れ落ち、そのたびに罪の断片が風に散る。子どもたちの歓声が悲鳴へ変わり、一人の女の子が群衆の間を抜けて走り出した。大鹿は首を伸ばし、紙でできた瞳が少女を見据えた。

「退け!」誰かが叫び、雪の音が裂けた。ユキネは短刀を携えていた。結び断ち。結びを断つ刃。母から教わった刃であり、禁忌とされた術具でもある。約束の結び目を一つだけ斬る力。母は幼いユキネに七つの刻を数えて見せた。柄の窪みに刻まれた七つの印は、使うたびに一つずつ薄れていく――刻は戻らぬ、と。代償は身体の温度と感覚が少しずつ奪われること。母はそれを「代わりに何かを差し出す」とだけ言って、詳しいことは語らなかった。

女の子の小さな肩を思ったとき、躊躇は消えた。ユキネは刃を握り、雪の亀裂を辿った。契文――「守る」と書かれた朱の字が歪んで揺れている。嘘がそこに結ばれている。彼女は刃先をその一点に差し入れた。切る、というより膜を裂くような感覚が掌に返る。目に見えぬ糸が一瞬にして絶たれ、異形の鹿は紙屑をはらい、霧のように溶け出した。

群衆のざわめきが変わる。女の子は母に抱きつき、誰かが胸をさすった。救えたという熱が胸を満たした。だが左手は違った。指先から世界の温度がすうっと抜けていくように感じ、布の感触も、刃の振動も薄れていった。最初は冷たさだけだったが、次第に感覚そのものが薄れ、手の内部にぽっかりと穴が空いたようだった。柄の窪みのうち一つが、戻したときにかすかに光を失って見えた。刻は一つ減った。それを見てユキネは小さく息を吐いた。刻は戻らず、奪われたものは簡単には還らない。

雪の上に黒い紙片が一枚転がっているのを見つけ、彼女はそれを拾った。濡れた手触り、にじむ朱の筆跡。裏返すと短い行があった――太い字で、冷たく確かな断罪のように。

「四柱は守っていない。城が食わせている」

言葉は骨のように重く、ユキネの呼吸は詰まった。紙の端に添えられた細い線を見た瞬間、胸の底がひんやりと沈んだ。字は白城サヨのものだった。サヨは数年前、城へ連れて行かれ、公式には死亡と発表された。だが遺体は戻らず、町では「失踪」と囁かれている。年寄りは口を閉ざし、噂だけが町角で踊る。ユキネ自身は真実を知らされてはいなかったが、母の筆致は忘れられない。精緻で手が震えるときの癖も、この一行ににじんでいた。

巫女たちが駆け寄り、白い衣の裾が雪を蹴る。巫女長の目は硬く、紙片を奪い取る勢いで手を伸ばした。ユキネは反射的に紙を胸に押し当てた。左手は頼りなく、冷たく、紙を確かめる力はほとんどなかった。巫女長の声は責めるというより、行先を問うていた。

「禁を犯した。結び断ちを使った理由は何だ、白城ユキネ」

言葉は裁きの針のように突き立った。ユキネは震えながらも答え、昨夜のことを説明した。紙が雪に食われ、異形が生まれ、人が追われたこと。老女は眉を寄せ、神殿の均衡を乱したと重ねて告げる。だがユキネの胸には、母の字と紙の一行が重く残る。

そのとき、石段に甲高い足音が響いた。城主家の少年兵が一人、静かに入ってきた。葛葉トウマ。黒い軍袴に鉄輪の護符を細く結い、いつもの冷静さを帯びた顔をしている。今朝の彼はいつもどおりの規律をたたえつつも、瞳の奥に微かな戸惑いが見えた。トウマは周囲を一瞥し、ユキネに向かって言った。

「上へは報告します。だが、今ここで連行するのは得策ではない」

言葉は淡々としているが、肩の動きに責務と迷いが混ざっていた。城の命令は絶対だ。だが彼の視線は、帳面の上の文字よりも、救われた女の子の方へ向けられている。巫女長が答えを返す前に、ユキネは紙を胸に押し当てたまま、低く言った。

「これ、母さんの字です。サヨの」

誰もすぐにはそれを否定できなかった。雪祭りの灯りが揺れ、町の喧騒が遠ざかるように感じる。ユキネは左手を擦ると、冷たさが肘へ向かってじわりと広がるのを感じた。母が遺した七つの刻はどれほどまで減るのか。刻が尽きれば、刃は何を断てるのか。胸の中に、いくつもの問いが雪のように積もっていった。

だが今、目の前にある確かな事実が一つだけあった。城の名が、紙の上で誰かを饗するように書かれていること。母の字がここにあること。そして刃を振れば人を救えるが、代償は確実に身体から何かを奪うということ。ユキネは紙を握りしめ、指先の冷たさを確かめた。雪の夜は青く深く、問いはそこに凍りついていた。