王女騎士 第9話「第八章 盟誓の代償」
朝の冷気が、まだ燃え残る灰の匂いを薄く引き伸ばしていた。城塞の南門を占拠してから三日目の朝。布張りの医療幕舎の中で、ミアは粗末な毛布にくるまりながら、自分の指先を見つめていた。指の付け根に、小さな刻印──盟痕が淡く浮かんでいる。刻印は微かに疼き、触れると冷たい電流が爪先まで走るようだ。
朝の冷気が、まだ燃え残る灰の匂いを薄く引き伸ばしていた。城塞の南門を占拠してから三日目の朝。布張りの医療幕舎の中で、ミアは粗末な毛布にくるまりながら、自分の指先を見つめていた。指の付け根に、小さな刻印──盟痕が淡く浮かんでいる。刻印は微かに疼き、触れると冷たい電流が爪先まで走るようだ。
「覚えているはずのことが、ぽろぽろ落ちていく」
そう思う。言葉が胸の奥で泡になり、弾ける前に消えてしまう。顔の輪郭、誰かの笑い声、前世の匂い。どれも掌からすり抜けた砂のようだ。
「――起きてるか」
細い声が横からかかり、ミアは顔を上げた。エリナだ。王女は疲れた表情のままにミアの隣の床に座り、指先をそっと握った。エリナの目はいつもよりも強く、しかしその奥にはやわらかな灯が消えかけずに燃えていた。
「けさの巡回は私がやる。君は少し休んで」
エリナの言葉にミアは首を振った。喉の奥で何かが引きつる。守られる側であるエリナを守るのが自分の役目だということは、今も変わらない。だが、守るために払った代償が、確実に彼女の内部を蝕んでいる。
「私が守る、エリナ・ヴェル」
言葉が自分の内側から出たとき、ミアは思わず手を握り締めた。奇妙な安心と同時に、胸のどこかがきしむ。それは盟誓を発動したときの感触だった。だが今ここで宣言したのは、確認のための口癖のようなもの。盟誓は実際には発動していない。ミアは自分の声が震えているのを感じ、笑いかけるように眉を上げる。
「確認だけだ。今は使わない」
「わかった。でも、こんな風に言うのはやめないで。君がそう言うと、皆が落ち着くから」
エリナの手は温かかった。ミアはその温もりを覚えている——今は。その記憶がいつまで保たれるかはわからない。
幕舎の外では、仲間たちの声が交錯していた。カエルが武具の手入れを早足で済ませ、サイムが帳簿と書簡を広げ、リサは傷の手当で忙しく動いている。ミロは遠巻きに座り、徽章の破片を指で弄りながら小さな歌の節を口ずさんでいた。彼の声には、掴みかけては逃げる記憶の匂いが混じっているようにミアには思えた。
「君、大丈夫か?」
カエルが幕の入り口から覗き込む。大男の声には、不器用な優しさが滲む。「戦場で無理するのは分かるが、あまり使いすぎるな。盾はいいが、壊れたらただの鉄だ」
ミアは小さく肩をすくめた。彼は正しい。盟誓は便利な盾だ。誓いを交わすことで彼女は他者の痛みや負荷を引き受け、その身を挺して守ることができる。その条件も、仲間は知っている——声に出して「守る」と名を呼び、相手と三十歩以内で触れ合うか、誓印で認証を行う。だが、そこには代償がつきまとう。使うたびに一歳分の肉体年齢が進み、一つの記憶が消え、盟痕が残る。今のミアは、その代償の一部を痛いほど感じていた。
「使い過ぎかどうかは自分で決める」とミアは答えた。言葉に迷いはない。だが胸の奥にある躊躇は消えない。守るべき人が目の前にいると、彼女は牙をむいて突っ走る。昔、夜間警備員として独りで回っていたときから、反射的に誰かを守る癖が身についているのだ。
リサがやってきて、ミアの盟痕を見下ろした。薬師の手は器用で、盟痕の周りを優しく押さえる。リサの顔には揺らぎがある。彼女は解析の途中で見つけたことを、まだ口にしていなかった。
「盟痕は、単なる刻印じゃない。瘡蓋みたいに見えるけど、そこから微弱な魔的な振動を感知する。けれど、記憶の回復方法はまだ見つからない。代償そのものを取り除く術は、私の知識では無理だ」
「それでも、何か対処法はあるか」
ミアは問い掛けた。リサは眉を寄せ、薄笑いを浮かべるようにして首を振る。
「完全に取り除くことはできない。でも、盟痕を刺激している魔的エネルギーを和らげる方法は試せる。温罨法、薬の練り込み。組織の再生を促す軟膏だ。ただし代償を食い止めるわけではない。痛みの波と刻印の脆さを少しだけ鈍らせる程度」
ミアは目を閉じた。少しだけ鈍る。たったそれだけで、何度助け損ねた命の差が生まれるかを思えば、それでも意味があった。
そのとき、ミロが近づいてきた。彼は徽章の破片を掌に乗せ、顔に浮かんだ興奮を隠しきれていない。彼の指先は徽章の細い歯に沿って丁寧に動き、やがて視線がミアに向けられた。
「君の徽章、よく見るとただの飾りじゃないね。内部に微細な歯車の痕跡がある。古い機構の一部だろう。あれがなぜ君にあるのか、興味深い」
ミロの声は平静を装っているが、言葉の端に震えがある。彼はその震えを自分に正当化するように、続けた。
「それに、君が誓った瞬間の光。あれは単に魔力の移行ではない。情報の共有、身体と経験の縮減が起きている。君が守らなければならない相手の技能とか記憶の一部が、君の内部にダウンロードされるようなものだ。代わりに君の何かが失われる」
ミロの言い方は遠回しだが、核心は指摘していた。ミロは旧王室に仕えた者であり、その言葉には重みがある。彼が何を隠しているか、どれほど過去を持っているかはまだ不透明だが、彼の知識は確かに役立つ。
「戦闘で何度も使っただろう。ここ数日でどれだけ消えた?」
サイムが帳面をたたみながら訊ねる。公文書の改ざんと情報操作を生業とする彼は、冷静だが情に厚い。彼の眉がきつく寄る。
「数は数えられない。私の中の――」ミアは言葉を途切れさせた。思い出せないひとつが口の中で溶けてしまったようだ。その穴を埋めようとしても、泳ぐように頭の中で手が空を掻くだけだ。
「具体的に言ってくれ。誰の顔を忘れたか、どの戦術の手順を忘れたか。対策はそこから立てる」
サイムの声は実務的だ。だがミアは、それに答えることができなかった。彼女は、自分の記憶の一片が消えていった瞬間を思い出す。孤独な倉庫の暗がり、叫び声、そして誰かが握った手の感触——その顔を思い出そうとするが、形がぼやけていく。ただ、ぬくもりだけが最後に残る。
「前世の家族の名前が出てこない」と、彼女は小さくつぶやいた。驚くべきことに、その言葉には恥ずかしさと悲しみが混じる。前世の生活を思い出すことは、時折彼女にとって救いだった。だが、今、その救いが少しずつ削られている。
幕舎の片隅で、羊皮紙に図を描いていたミロがふと黙り込む。彼は徽章を掌に転がし、指先でその縁を撫でた。目は遠いところを見ている。
「徽章は……ただの装飾でない。だが、それが君の記憶を直接消すわけじゃない。消えるのは盟誓による代償だ。徽章は他の何かに反応している。だから僕は気になるんだ。徽章の微細な刻みが何かの回路に合う可能性が高い」
ミロの言葉は、聴衆の興味を撫でるように広がった。カエルが腕を組む。サイムが顎に手を当てる。誰もが、徽章の意味を考え始める。
「もう一つ。村人たちが変だと言っている。子供がその日だけ歌えなくなったとか、鍛冶屋が急に手際が良くなったとか。位が揺れている。地形によって力が増す場所があるって話は聞いてるけど、今回のは周期的というか、夜ごとに変わるらしい」
リサが顔を曇らせた。治療の傍らで彼女もまた位の波を測っていたのだ。彼女の測定器具は簡素だが、微かな乱れを示している。位の不安定化は、民の生活に直接影