王女騎士

王女騎士 第10話「第9章 徽章を示す者」

朝の空気は冷たく、城塞の石垣にまだ夜の湿り気が残っていた。ミアは門前の広場に立ち、手の中の小さな金属徽章を何度も回していた。光を受けて、徽章の縁に彫られた小さな歯が一瞬だけ滑らかに噛み合う――誰も気に留めないほどの細工だが、彼女はその感触を指先の記憶として覚えていた。

朝の空気は冷たく、城塞の石垣にまだ夜の湿り気が残っていた。ミアは門前の広場に立ち、手の中の小さな金属徽章を何度も回していた。光を受けて、徽章の縁に彫られた小さな歯が一瞬だけ滑らかに噛み合う――誰も気に留めないほどの細工だが、彼女はその感触を指先の記憶として覚えていた。

今日の自分は、ただの傭兵や武装集団とは違う。短期の目標ははっきりしている。城塞の中心で、追放された王女エリナが「王女として戻るに足る」正統性を示すことだ。長くは続かないかもしれないが、まずはここに暮らす人々の心を取り戻す。だが、それは言葉だけでは叶わない。彼らは証拠を見たがる。ささやかな儀礼、小さな証。ミアは徽章を、その証の一つにしようと考えた。

「ミアさん、緊張してる顔に見えますよ」

背後から声がして、振り返るとカエルが肩をすくめた重装甲のまま、朝靄の中に立っていた。彼の顔はいつもより穏やかだ。戦場では冷徹だが、今日は仲間の鼓舞のために来ている。

「そう見えるかしら。私、ここで何と言えばいいかわからない」

ミアは小さく笑ってみせた。嘘は嫌いだが、嘘で人心を誤魔化すつもりはない。徽章を差し出すと、カエルの目が一瞬止まった。「それは……」

そこへ一本の杖をついた年輩の男が、城塞の古参の守衛を従えてゆっくりと歩いてきた。守衛たちの顔には長年の宿命と疲労が刻まれている。先頭に立つのは、一族の当主らしい白髪の女だった。年季の入った革鎧に、彼女の右腕には徽章と同じ紋が刺繍で描かれていた。

「おはよう。王女に会わせて頂けるかしら」エリナの声は緊張と覚悟を帯びていた。あの声は、演説の練習で幾度となく耳にしたものだが、今はもっと重い。彼女の姿はいつもの薄い旅衣の上に、民に与えられた粗布のマントを纏っていた。民の中に居場所を取り戻すための出で立ちだ。

守衛の女の目が徽章へと移る。ミアは徽章を掌に乗せて差し出した。金属が冷たく指先に触れ、微細な溝が皮膚に当たる。

「その紋……昔の守衛の印に似ておる」女の声は砂利混じりだが確かな確認だった。「我が家に伝わる印と形が同じだ。どうしてお前がそれを?」

サイムが歩み寄り、無造作に小さな巻物を取り出して示した。書記官らしい筆跡だ。彼は王都での経験を生かし、古い登録簿の断片を複製していた。

「ここに、かつての衛士名簿の写しがあります。徽章の紋様は確かに登録されている。だが――その後、この家系は一度御門から外された。記録の欠落がある」

守衛の女は眉をひそめた。ミアはゆっくりと口を開いた。

「私が持っているのは、偶然手に入れた金属片だった。転生してすぐ、これを懐に入れていた。意味はわからなかった。でも、貴女と同じ紋章を持つ者に顔向けできるなら、それを証明したい」

広場の人々がざわつく。誰もが勝手な期待を寄せる目でこちらを見た。ミアは背筋を伸ばした。前世の夜警で培った態度――目に見える証拠を、理路整然と示すという習慣が今生でも役に立っている。

「徽章を見せるだけでは足りない」守衛の女が低く言う。「我らは徽章を持つ者を一目で識る。だがそれを公に認めるには、古来の誓いを必要とする。我々の家では、その儀式を通した契約だけが、外様を受け入れる条件となる」

「儀式……ですか」エリナが顔を強張らせた。「どのような?」

「言葉と触れ合い。互いの手を取り、守る意志を言い、印を交換する。今の時代には珍しい、古いやり方だ」女は淡々と説明した。だがその瞳の奥にあるのは、長年の誇りだ。

ミアの胸にわずかな緊張が走る。盟誓の盾の発動条件と符合する形だ。声に出して「守る」と名を呼び、触れ合う。物理的距離は近く、誓印の相互認証があれば成立する。だが盟誓は万能ではない。禁止と代償があることを、彼女は知っている。それでも意志を示す者が必要ならば、ミアはそれを行う覚悟を持っていた。

「私がやります」ミアははっきりと言った。「私――ミア・レーンは、エリナ・ヴェルを守ります」言葉は冷静に、だがどこか震えていた。護るという行為を明確に言葉で宣することは、前世の口頭報告と同じくらいに重要だった。

エリナは一歩前に出て、ミアの目を見た。二人の距離は五歩もない。守衛女が低くうなずき、古い輪を象った布切れを差し出した。小さな誓印の代わりになる物だった。ミアはそれを受け取り、そっとエリナの手と触れ合わせた。指先が触れると、微かな冷気のような感触が走った。

「守る」ミアは繰り返す。声は低く、広場中に響いた。「エリナ・ヴェルを、私は守る」

言葉と触れ合い。誓いは成立した。盟誓の盾が――静かにだが確かに動いた。

最初の兆候は、エリナの肩にあった小さな瘀傷に現れた。昨夜の逃避行で出来た擦り傷だ。痛みがぬるりと引き、肌色のさざ波のようにその場で広がったのが見える。エリナは眉を寄せ、驚きで小さな呻きを漏らした。

「痛みが――」エリナは顔をしかめる。「減った、気がする」

だが同時にミアの掌が熱を帯び、胸の奥に古い疼痛が差し込んだ。疼きは確かに移った。彼女は吸い込むように息を吐き、顔をしかめた。仲間たちの視線が一斉に集まる。ある者は安堵し、ある者は恐れた。それは一瞬の静寂だった。

「盟誓の盾だ。今見たことを民に説明しよう」サイムが低い声で提案した。彼は書記官としての口調で言葉を選ぶ。情報は整然と提示されるほど人を納得させる。ミアは首を縦にした。

エリナはゆっくりと前に出て、手を広げた。広場にいた人々の多くが戸惑いながら距離を詰める。彼女は疲れた声で言った。

「私は、ここで――今ここにいる皆のために戻ってきました。証拠は言葉だけでなく、今日見せられたものがある。古い守りの証があり、そして――私が守られているという事実がある」

群衆の中で、頷きが小さく起きた。だが同じくらいに危惧の気配もあった。魔力や奇跡は時に危険と背中合わせである。ミアの顎が軽く震える。盟誓を使った代償は直ちにやってきた。

「年齢の進行」と「記憶の欠落」――使用ごとに来る代償である。ミアは胸に走る古い痛みを咎め、ふと自分の右手首に目をやった。盟痕が見える。小さく黒い刻印が皮膚に浮かび、指先で触れるとほんのりと痛い。盟痕は敵に狙われやすいと聞く。今、この刻印が露出していることは、情報としても危険だ。

そしてもう一つ。ミアは突然、細い不安に襲われた。靴紐を結ぶときの、自分の癖――左端の紐を二回巻く癖――それをどう結んでいたかが、一瞬思い出せなかった。些末なことだが、前世の小さな習慣や大切な数字が、少しだけ曖昧になっている。彼女はそっと唇を噛んだ。

「大丈夫か?」カエルがすぐ隣で尋ねる。彼は戦術面の師でもあり、彼女の健康を慮る。ミアは小さく首を振ったが、誰にも本当のことは言わない。記憶が消えるというのは、説明では済まない個人的な喪失だ。仲間たちにそれを見せるのは、弱さを晒すことでもある。

だが、今はその弱さがあっても仕方がない。民心を掴むことが先だ。誓いの儀式を終えたことで、旧守衛家の者たちは遅ればせながらその場に加わった。年老いた女の顔に、確かな決意が浮かぶ。

「我らの家の名を汚す者ではないと判断した」女は静かに言った。「この城塞は、暫定的に王女陛下