王女騎士

王女騎士 第3話「第2章 集いの道」

朝の冷気が肌を刺す。砂利道に残った馬車の轍を踏み返しながら、ミアは宙を見ずに地面を見て歩いていた。前世の習性——夜のうす暗さに目が慣れる感覚、音の方向で危険を読む癖、鍵穴のわずかな擦り切れで誰が通ったかを推測する能力。ここではそれが、ときに命を救った。

朝の冷気が肌を刺す。砂利道に残った馬車の轍を踏み返しながら、ミアは宙を見ずに地面を見て歩いていた。前世の習性——夜のうす暗さに目が慣れる感覚、音の方向で危険を読む癖、鍵穴のわずかな擦り切れで誰が通ったかを推測する能力。ここではそれが、ときに命を救った。

エリナは一歩後ろで、両手をそっと衣の裾にかけている。髪はまだ濡れているように見えた。追放されてからの几帳面さを保とうとしているのか、身の回りを整えることで気を紛らわせている。王女と名乗る彼女の顔には、昨夜の追撃の疲労と、しかし一種の希望が混じっていた。ミアはその希望を育てるために、現実的な手を打たねばならないと思っていた。支持者、食糧、拠点。順を追って積むしかない。

「次の宿場町までは半日だ。通貨の持ち込みと補給、それに防衛のための信頼できる人材を探す」
ミアは淡々と言った。言葉に嘘がないのが自分の武器だと、いつの間にか信じている。

道端の露店から、老人の呼び声が聞こえた。小さな肉屋の前で、子供が一人泣いている。ミアは自然と足を向ける。群れの誰かが、あの泣き声で気をとられる。夜間警備をしていた時の習性は、見捨てられた弱者を放っておけない。

店の前には見張りの者が二人、表情を硬くして立っていた。そこへ、細い影が路地から滑り込んだ。刃の光が一瞬朝日を反射して、ミアは咄嗟に体を動かした。男手が押し出し、女が子供の袖を掴んでいた。

「金を出せ、女は通すな。王女ならばなおさら――」
女は怯えながらも、子供の手を強く握る。だがミアの目が、その女の目よりも先に男の装いの乱雑さと、足元の泥の不自然なつき方を見た。傭兵かならずしもではない。やはり、金目的の掠奪だ。

ミアは横合いに飛び出した。前世の咄嗟の判断で、相手の操作する刃の角度と、押さえに入る相手の腰つきまで読んでいた。だが、今回は一線を越えさせない。それはエリナを守ると誓ったことの延長線上にある。

「やめろ」
声を出し、手を伸ばす。エリナの方へ利き手を差し向けると、エリナも反射で体を固めた。二人の距離は数歩。周囲の者々が息を呑む。

盟誓の盾を発動するには、三つの条件がいる。己の意志で「守る」と声に出し、相手の名を宣すること。守る対象と物理的に三十歩以内にいること。誓いの成立に際して、どちらかの手が触れるか、双方が所持する誓印で認証すること。

ミアは迷わなかった。口を真一文字に結び、小さく息を吸って、声を放った。

「守る。エリナ・ヴェル。」

同時に、彼女はエリナの手の甲に触れた。エリナの細い指先が、驚きと恐怖で一瞬硬直するのをミアは見た。だが手は離れなかった。誓いは成立した。

凍りつくような静寂の後、感覚が一変した。ミアの胸の奥が引きちぎられるように疼き、次いで誰かの吐息が彼女の肺を満たした。それはエリナの痛みだった。男に押されて転んだ女の肋骨が、ずれた瞬間に走る鋭い痛み。ミアはそれを、自分の身体の中に引き受ける。外では鋭い金属音が響き、ミアは目を閉じた。

盟誓は「守る」行為を実行するための盾であり、そのとき相手の負荷を引き受ける。だが代償がある。使用と同時に、肉体年齢が一歳分進み、使用者の中の記憶が一つ消え、盟痕が残る——この三つは避けられない代価だ。ミアはそれを知っていた。知っていながら、選んだ。選ぶ以外の道はなかった。

感じたのはまず、鋭い疲労と、骨のわずかな軋みだった。朝露の匂いが、突然遠くなったように感じる。ミアは自分の左手首に小さな熱を感じ、見るとそこに薄い紅い線が浮かんでいる。盟痕だった。小さな刻印が皮膚を染め、冷たい金属の感触が指先に残る。

「っ……!」
ミアはその場でうずくまりかけたが、エリナの顔が見える。エリナは驚愕と感謝の入り混じった目でミアを見ていた。子供は泣き止み、商人たちがざわめく。押し寄せていた男たちは、仲間の一人が倒れたのを見て狼狽し、逃げ去る。

だが代償は答えを待たない。ミアはふと、何かを思い出そうとしてできなかった。朝に確認したはずの道具箱の鍵の番号が、すっぽりと抜け落ちたように思い出せない。前世の、かつての職場の監視室に貼られていた小さな札——上司の名字——その一文字だけが霞み、消えている。彼女はそれがどれほど重要かすら、今は分からなかった。

「大丈夫か?」
エリナが駆け寄り、ミアの肩を支える。触れられるたび、ミアの中の痛みが薄らいでいく。盟誓は解除された。ミアは震える手でうなずく。

「ええ、……なんとか。止められた」
だが声に若干のゆらぎがある。ミアは自分の顔を見下ろし、ほんのわずかに増えた白髪の筋を見つけた。気のせいではなかった。代償は確かに身体を刻んだ。

商人や宿の者たちが集まり、口々に感謝と驚きを述べる。ミアはエリナの名を口に出して守ったその事実が、周囲に与えた印象を冷静に分析した。だが同時に、心のどこかで小さな虚無が広がる。失った記憶が何なのか。いつか取り返せるのか。ミアはその問いを、まだ誰にも投げかけなかった。

そこへ、薄布を羽織った男が歩み寄る。腰に小さな符箋をたぶらせ、帽子のつばを上げたまま、眼だけが光っていた。見た目は旅芸人にも見えれば、老紳士にも見える。顔に刻まれた皺の深さと、口の端の笑みが、何か古い中心に通じるものを示していた。

「ふうむ。噂は速い。王女様を守る騎士か。興趣深い」
男は言葉を滑らせ、仕草に嫌味がない。ミアは自然と警戒した。旅の占い師か。だがその言葉の端々に、王都の地名や古い家名をさらりと混ぜるのが気にかかった。

「ミロ、と名乗りましょう。道化の顔は商い用なのだが、耳と目だけは真面目に働いておる。お嬢さん——エリナ様の後ろ盾が欲しいのなら、古い回路を一つ紐解くには私のような者が役に立つかもしれん」
ミロ、という名は軽やかに空気に溶けた。エリナは顔を上げ、わずかに眉を寄せる。ミロの視線が、ミアの胸元にある金属の徽章に留まった。

ミアは習慣で手を胸に当てる。あの古い金属の徽章は、前世の所持品の名残だと思い込んでいた。ここでは目立たないように布で覆っていたが、戦闘のときに僅かに見えてしまったらしい。ミロの顔色が一変した。

「それは——珍しい。眠った獣が顎を見せたときに、古い番人が覚醒するものだ」
ミロは低く呟いた。言葉は詩的だが、何かを知っている。ミアは直感的に、その男がただの行商ではないと察した。

「お前は何者だ」
ミアは短く訊ねる。嘘が嫌いな自分が、すぐに試したくなる相手だった。ミロは紙片を取り出して、ふわりと振った。紙片に描かれた古い紋章の線と、ミアの徽章の模様が、奇妙な調和を見せた。

「昔はよく王都に居た。儀礼を見て、記録を紡ぐ者。だが私は長く旅をしておる。必要ならば、古い地図の端っこを案内しよう。だが——代価は心の軽さでなく、真実を求める覚悟だ」
ミロの笑みには、重さが込められていた。ミアはその笑みを見て、背の奥が冷たくなった。彼の言葉は穏やかだが、情報の重みを匂わせる。

「仲間になるかどうかは状況次第だ。今は取り急ぎ、拠点と仲間を集めねばならない」
エリナが言った。王女らしい口調だが、昨夜よりも確固とした響きがある。ミロは帽子をとって軽く会釈した。

「では、ちょいと歩