王女騎士

王女騎士 第2話「第1章 宿場の夜回り」

夜は薄く、冷えた灰色が家々の屋根をなぞっていた。ミア・レーンは並んだ小屋の影を確かめながら歩幅を刻む。昔の癖で、足音が路面に与える余計な反響を嫌い、鼻先で風向きを読むようにして匂いを拾った。前世では深夜のビルをぐるりと巡る夜間警備員。ここでは、瓦屋根と木戸の間を見回る夜回りになっているだけだが、身についた観察眼はそう簡単に消えない。

夜は薄く、冷えた灰色が家々の屋根をなぞっていた。ミア・レーンは並んだ小屋の影を確かめながら歩幅を刻む。昔の癖で、足音が路面に与える余計な反響を嫌い、鼻先で風向きを読むようにして匂いを拾った。前世では深夜のビルをぐるりと巡る夜間警備員。ここでは、瓦屋根と木戸の間を見回る夜回りになっているだけだが、身についた観察眼はそう簡単に消えない。

手首に触れる冷たい金属。それが、彼女には唯一の「繋ぎ」を思わせる物だった。古びた徽章──前世のことなど覚えていないはずの片隅に、なぜか残っていた金属の塊。指でなぞると、微かな凹みと磨耗した歯がある。転生の瞬間に残された、意味の薄い縫い目のようなものだが、無造作に包まれていたその物が、街路の薄闇に狼の目のように光ることがあった。

「……ここに泊めてください、お願いします」

物陰からかすれた声。ミアが振り返ると、布をまとった細身の少女が、震える指で裾を握っていた。王女だった。薄汚れた絹をまとってはいるが、背筋の伸び方と、見るからに清廉な顔立ちが、その場にそぐわない光を作る。エリナ・ヴェル。噂と伝聞は人を一瞬で判断させる。追放されたというその名は、夜の宿場で囁かれていた。

「ここは危ない。扉は内側から二か所に掛けられるか、窓はすべて板で塞げ。火は控えめにして、見張りは最低二人は残す」

ミアは指示を淡々と出す。守りの手順は体が覚えている。エリナはただ頷き、目を伏せた。誇りと恐怖が混じった表情が、守られる者のものだとミアは知った。

それから数時間。宿場は眠りに馴染み、木造の格子戸が軋む音だけが、遠くの犬鳴きの間に混じった。ミアは火鉢のそばで毛布を被るエリナの背を見つめながら、外に向けてもう一度見回りを始めた。足元の砂利の具合、戸の掛け金の位置、風の匂い──記憶の断片のように前世の技術が微かな自信を与える。だが、彼女は完全にこの世界に馴染んでいるわけではない。名も、出自も、希望も、すべてが新しい紙のようで、容易に破れそうだった。

夜更け、遠くからざわめきが聞こえた。人の怒号。鉄甲の擦れる音。ミアは立ち尽くしたまま、心拍を抑えて耳を澄ます。斜め向かいの路地から、二つの灯りが高速でこちらへ近づく。気配は迫ってきて、波のように宿場を震わせた。

「来る」

短い声。ミアはエリナの寝所から小箱を取り出すと、中に入れてあった小さな布片を握って走った。その中には紛れもなく「誓印」があった。木彫りの小さな紋章。旅の先でやむなく金を差し出した酒場の主人がくれた代物だと、思い出のかけらが囁く。意味はわからない。だが、ここにあると手が落ち着いた。

外には三十人ほどの一団が、粗末な楯をかざし、棒と短剣を持って屯していた。先頭にいる男の胸には、見覚えのある紋様が粗雑に刺繍されている──徽章に似た模様だ。顔に傷があり、瞳に怒りがある。地位を奪いに来る者たちの顔だと、ミアは直感した。

「金を出せ。王女などかまうな」

男が怒鳴った。喝采のような笑いが響く。だが笑い声の端には、戸板の裏側からこっそりと覗く民の目がある。民は怯えている。守るために立ち上がる者は今、この場に何人いるだろうか。

ミアは静かに息を吸った。前世の習慣が、自分を動かす。

夜回りで学んだことは、待つより先に状況を作ることだ。光を散らす小さな火を逆手に取って相手の視線を誘導し、裏道に仕掛けたつっかえ木を使い、夜陰で扉を閉める。ミアは用意しておいた小道具を取り出し、素早く一つの部屋の戸を閉め、その内側から紐を張り、外からの叫びを遮断した。だが、物理的な遮断だけではない。必要なのは、誰かが盾になることだった。

「外へ出るな、隠れて」

エリナの声が震えた。ミアは振り返り、彼女の手を取る。手は冷たく、震えている。目が据わっていた。

「名前を言って。はっきりと」

ミアは自分の中で、ある種の緊張を理解した。これはただの護身術ではない。言葉が鍵を鳴らす。彼女は指先で誓印を確認し、エリナの手が近くにあることを確かめた。距離は十分に近い。三十歩以内どころか、二人は指先が触れるほどだった。

夜風が二人の間を流れる。

ミアは声を出した。硬い、だがためらいのない声。

「守る。エリナ・ヴェル。」

手を握り合い、誓印同士が触れ合う。金属と木の冷たさが、微妙な電流のように腕を駆け抜けた。彼女は知らなかった。だが、そのとき世界が変わるような感覚を全身で受け止めた。

最初に来たのは──痛みの線。村の裏で暴徒に切られた老婦の腹から、ぎゅっと鋭い痛みが引き抜かれてこちらに流れ込むようだった。ミアは思わず舌を噛み、腰を折る。腹に鋭い風穴が開くような感覚。だがその痛みは確かに誰かのものを引き取るもので、目の前の戸の向こうでは、鎖につながれた女性がぐったりと崩れていた。傷は一瞬薄くなり、彼女は息を整えたように見えた。

「な、なに……」

エリナの声は涙を含んでいた。ミアは自分の手を見た。血は出ていない。だが、腕の皮膚に灰色の刻印が薄く浮かんでいた。盟痕。熱がそこに集まり、指先の感覚が変わる。冷えた夜の空気の中で、彼女の体が古びた木箱の中の針のように一つ年輪を刻んだ気がした。

「一つの年を失う」──そんな言葉がどこかで聞こえたような気もした。記憶の順序が一枚欠けたように、ミアは幼い頃に好きだった猫の名前がすぐに思い出せなくなった。名のない失われかけた断片が心の端で消滅していく。胸にぽっかりと穴が開いた。だが隣の女が立ち上がり、力を取り戻したのを見れば、それでよかったのだと、彼女は自分に言い聞かせた。

「なにをしたんだ?」

カエルのような低い声が背後からした。厚い鎧をまとった男が、切羽詰まった顔で路地から飛び出してきた。だが彼が見たのは、いつもの夜回りと違う光景だった。ミアの目はいつの間にか冷たく光っていた。盾となった後の彼女の立ち姿は、確かな指揮を示していた。

「名前を聞かれたのは初めてです。守るって、言ってみただけ」

ミアは苦笑するつもりだった。だが笑顔はどこかぎこちない。盟痕のある腕が、微かに震えた。年を取る感覚は、単なる肉体の痛みではない。夜の覗き穴が一つ、曇ったように見えた。

リサという若い薬師が押し入ってきた。小さな袋から香草を取り出し、負傷者の傍らで手際よく包帯を替える。彼女の瞳は真剣で、器用な指先が血を抑える。ミアは彼女の手つきを見て、俯いたまま感謝する。

「君、よく動くね。――名前は?」

リサはエリナの顔を覗き込み、続けてミアに微笑みかけた。彼女の声には失礼を憎むやさしさがあった。ミアは名乗ろうとしたが、唇が震えて出ない。代わりに徽章に手を当てると、リサの目が一瞬止まった。

「それ……古い守衛の紋だわ。家に伝わるって聞いたことがある。珍しい金属ね」

リサは徽章を撫でるように見つめた。ミロは遠目で、路地の影からその様子をじっと見ていた。放浪の占い師らしく、薄汚れたマントを羽織っているが、その瞳には何か古い知識の火花が灯っていた。彼は何も言わず、ただ徽章とミアの手元を見ていた。ミアは彼の存在を確かめると、わずかに首を下げた。

「……俺たち、ここに泊めてもらえるのかい?」

エリナが礼を言うように訊ねた。