王女騎士 第1話「序章 夜明けの誓い」
夜は嘘をつかない。輪郭を奪い、音を平べったくするからだ。ミアは古びた革の襟を立て、足裏で道の凹凸を探りながら進んだ。前世の名は忘れたが、夜回りの癖だけは骨の奥に残っている──違和感を見逃さないこと。息遣いがいつもと違えば、そこに危険がある。
夜は嘘をつかない。輪郭を奪い、音を平べったくするからだ。ミアは古びた革の襟を立て、足裏で道の凹凸を探りながら進んだ。前世の名は忘れたが、夜回りの癖だけは骨の奥に残っている──違和感を見逃さないこと。息遣いがいつもと違えば、そこに危険がある。
峠の闇に白い布がふわりと揺れた。細い影が俯いている。裂けたドレスの端に、蒼い花の刺繍と奇妙な紋章の断片が見えた。噂は本当だ。追放された王女が、そこにいた。
「……エリナ・ヴェル?」
彼女の声は風紙のように薄く震えた。背後に三つの足音。護送ではない、追手だ。火打石のかすかな擦れが、刃を抜く前の慌ただしさを告げる。
「声を出すな。見つかったら終わりだ」
ミアは低く命じ、視線で最短の指示を組み立てる。斜面の角度、風向き、相手の人数と配置──身体が覚えた判断は、計算より正確だった。正面から押し切られれば女は斬られる。動かなければ、ただ傍観するだけの人間になる。
首から下げた小さな金属の徽章にふと触れた。丸縁に細い歯模様──夜勤時代の名札代わりだったものだ。冷たく重い。無意識に握りしめ、肩越しに差し出すように歩み寄った。
「動く。私が守る」
言葉が口を突いた瞬間、身体のどこかが合図を受けたように収まった。ミアは三つの所作を同時に行っていた──宣言すること、対象に触れること、近くに留まること。掌が裂けた布に触れたとき、冷たい衝撃が全身を走った。まるで誰かの痛みを引き受ける鎖が結ばれるように、空中で放たれた矢はエリナを掠めることなく燃え落ちた。代わりに、鋭い痛みがミアの腹に刺さる。
「何を……したの?」
エリナは目を見開き、言葉を漏らした。ミアは反射で彼女を低く抱えて止血の真似をする。布を当て、圧迫し、最低限の体位を取らせる。実務の手が、守るための手になる。
掌に薄く浮かんだ紋様──盟痕が光を帯びているのを見た。熱を帯びた皮膚。胸の奥にぽっかり空いた感じ。思い出そうとした些細な記憶が、指の間から滑り落ちる。夜勤の退屈な自販機の光、同僚の笑い声の輪郭──いくつかがぼんやりと消えた。掴もうとすると溶けていく。
「覚えてないのか?」
問いにミアは首を振った。説明する余裕はないが、代償はここにある。
「使えば何かが消える。匂いだったり、細い習慣だったり。すぐに戻るものじゃない。年を一つ拾うみたいな鈍さもある」
声が淡くても、皮膚の疼きと視野の甘さが真実を示している。代償は明確だった。記憶の破片と、肉体に刻まれる痕跡。これを繰り返せば、もっと大きな喪失が積み重なるだろう。ミアは知っていた──知識ではなく、体が覚えている。
「いいのか? 私が……あなたを守るって」
エリナの手が、震えながらもミアの腕に回された。合図は、相手の意思だ。盟誓は一方的な押し付けでは動かない。意志の合意があるからこそ、鎖は結ばれる。ミアは頷いた。守ると決めること。それが今の自分の目的になった。
追手が詰め寄る。先頭の男が笑った。
「ファロン卿の命だ。連れて行け。褒美は大きい」
その名で空気が重くなる。どこかで聞いた政治家の名だ。事情はここでは関係ない。刃を振るう人間がいるだけだ。
戦いは短かった。ミアは地形を利用し、致命の一撃を避けつつ三人の戦力を削いだ。剣で勝負をつけるのではなく、合理的に相手の射線と足抜きを奪う。エリナを抱え、谷を回って逃げる途中、何度か盟痕が疼いた。触れるたびに紋様は淡く光り、やがてくすんでいくのが分かった。
互いに息を整える間、ミアは試しに左腕を伸ばし、追手のうち一人の肩に触れてみた。何も起きない。盟誓は攻撃に転じない。守るために痛みを引き受ける力であって、向けて傷を与える力ではない──それが禁じられた線だ。ミアはそれを身体で確かめる。自分の選択は、防ぐことに限られている。
屋根の上で薄く笑う声が聞こえた。煙突の陰に立つ長いローブの男は、徽章を見遣りながら小さく口を動かす。占い師か旅芸人の風情だが、その瞳は真剣だ。男の視線が徽章に吸い寄せられると、顔に短い確信が浮かんだ。
「思った通りだ」
言葉は闇に溶け、男は影の中へ消えた。足音はなかった。まるで風が残しただけの痕跡のように。
宿屋へ向かう決断を告げると、エリナは小さく頷いた。人目のある所の方が安全だ。ミアはポケットの中の鍵束と名刺入れを確かめ、徽章をもう一度掌に握った。縁の歯が少し欠けて見えるが、それが錯覚か代償の兆候か、今は判別できない。
峠の向こうに、城塞の監視灯が見えた。いつもの律動はなく、不規則に明滅している。遠くで何かが息を詰めているようだ。夜は、まだ何かを告げようとしている。
二人は静かに歩き出した。掌には盟痕の淡い熱が残り、ミアの中のいくつかの記憶は既に戻らないことを示していた。守ると決めた以上、犠牲は計算に入れる。だが誓いを交わした瞬間、彼女の胸にひとつの名が生まれた──「騎士」。それは格式でも称号でもない。夜と泥の中で、自分が人を守る者として立つという、最初の一歩だった。夜明けはまだ遠い。だが誓いは、すでに動き出していた。