傷貨の聖女 第23話「第21章」
町の広場は、いつにも増して人が集まっていた。灰色の空の下に並んだ簡易の救護テントの間を、聖務院の黒い標章をつけた役人たちが整然と歩く。その列の先頭に立っていたのは、かつての軍司令官としての直立した姿勢を崩さない男――ヴァルドだった。彼の右手は無意識に胸の上へ置かれている。鉱夫たちの習慣と同じ所作だが、その手つきには祈りや演技ではない、深い癖が滲んでいた。
町の広場は、いつにも増して人が集まっていた。灰色の空の下に並んだ簡易の救護テントの間を、聖務院の黒い標章をつけた役人たちが整然と歩く。その列の先頭に立っていたのは、かつての軍司令官としての直立した姿勢を崩さない男――ヴァルドだった。彼の右手は無意識に胸の上へ置かれている。鉱夫たちの習慣と同じ所作だが、その手つきには祈りや演技ではない、深い癖が滲んでいた。
「聖女リゼット・アーヴェル」役人の札が風に鳴るだけで、広場のざわめきは一瞬止んだ。リゼットはノエラの隣で、薄い毛布にくるまれた患者たちを見回していた。煤で黒ずんだ顔、疲れ切った瞼、寝台の脇に小さく置かれた金属片――銅や銀の光が、朝の冷気にちらりと反射する。どれもこの町で抱えられた痛みが形になったものだ。
役人は冷静に一枚の一覧表を差し出した。そこには転送すべき「感染者数」の数字と、治療すれば生じる貨幣相当量が並び、欄外には朱で「回収優先」と書かれている。聖務院の言葉は流れるように正確で、威圧を含んでいた。
前世で査定員だった癖が、すぐさま働いた。余白の省略、押印の位置の不自然さ、数値の切りの良さ。数字そのものが語る矛盾を、体が読んでしまう。だが、この場で露にすれば混乱を招く。リゼットは息を整え、予定に従って応じた。
「患者一人一人に同意を取ります。意識不明者は事前登録と代理人二名の確認が必要です」彼女の声は低く、規則の枠組みを明確に示した。聖女の力は奇跡と見なされがちだが、規則がある以上、それに従わねばならない――彼女はその線を決して越えない。
役人の顔色が一瞬硬くなる。しかし彼は別の書類を差し出し、言った。「非常時の命令があれば、優先権は聖務院にあります。速やかに行動していただければ、王庫からの補償が出ます。貴君の功績は記録される――リゼット・アーヴェル殿」
「補償」と「功績」の響きは甘い。しかし彼らが差し出すのは、報告される数と、回収されてしまう痛みの流れだ。リゼットは胸の中で自分の負荷を数えた。昨夜は五時間の睡眠をとった。規則どおり、熟睡一時間につき一負荷で、通常の一日上限は八負荷。今朝すでに一度、軽度の治療をして一負荷を使っている。残る稼働可能量は四負荷。無理をすれば記憶が曖昧になり、さらに続ければ寿命の一部が金属化する――能力のルールがそう定めている。
周囲から囁きが上がる。患者の家族が聖務院の腕章を睨む。ノエラがリゼットの腕に触れ、小声で促した。「同意がない治療は行わない。それがここでの掟よ」
だがそのとき、役人の一人が口を開いた。「もし今ここで一度に多数を救えば――王都は大々的に称え、貴町は王の保護を得られるだろう。千人を救うために、一人の犠牲が必要だとしたら、どうする?」
その言葉は、過去に聞いた決断の文言と同じ形をしていた。ヴァルドの背筋がぴくりと動く。リゼットは首を振った。
「私は誰かの寿命を代償にする方法は採りません。そういう解決は、当事者の選択を奪います」彼女の声は静かだが揺るがない。「救済を行うなら、代償を公にし、本人たちが選ぶ権利を守る。隠された犠牲は認められない――それが私たちの条件です」
役人たちは面色を変え、場の空気は冷たくなった。彼らには、同意を強制するための手段がある。場を撹乱し、署名を取りつける。歴史が示す最も露骨な方法だ。しかし、そのとき、ヴァルドの顔が変わった。彼は軍服の袖をはらい、封蝋の押された袋を取り出した。聖務院の印が光る。
「これが聖務院の『回収名簿』だ」彼は封を切り、厚い巻物を広げた。表面には名がびっしりと刻まれている。生年月日、職業、負傷の程度、そして薄い赤い文字で添えられた一語――「回収」。巻物には黒い線が人名を縫うように走り、線は王都の方向へと延びている。リゼットはそれを見て、胸が締め付けられた。
「これらは王都が回収対象とした傷貨の一覧だ。ここに『回収』とある者の治癒は、王庫へ直結する。家族は補償を受け取るが、痛みは帳簿へと吸い上げられる。名は記録から消される――表には出ない」ヴァルドの声は低く、震えが混じっていた。彼がかつて下した決断が、いつまでも彼の中に残るらしい。
巻物を囲む人々の顔色が変わる。老女の名、昨日応急処置を受けたという若い鉱夫の名も見える。セインは顔を青ざめさせ、息を漏らす。「これは……本人の同意がないものがある。『代理:王庫特命』とある名前もある」
「王都は結果だけを欲している。数を埋めるために犠牲を選ぶのだ」ヴァルドは巻物を高く掲げた。「私はかつて、その判断で家族を救えなかった。だが二度と、誰かの生を国家の計算の餌にすることはしない」
混乱の中、若い母が一歩出てきて、震える声で息子の名を指した。「私のトマはここに――回収と書いてありますか?」
リゼットは母の手を取り、穏やかに訊ねた。「貴方は法的代理人ですか?」町の取り決めでは、意識不明者の扱いは事前登録か代理人二名の同意が必要で、緊急救命の例外は厳格に限定される。ここでの選択は、規則に則ったものしか認められない。
母はこくりと頷き、隣に立つのは家業仲間の老夫だ。二人は震える筆で署名し、「治療を望む」と明言した。形式は整った。ここでリゼットが行うのは、規則に基づく同意に基づいた治療だ。緊急救命の特例はこの場では使われない――彼女は規則を破らなかった。
リゼットは胸の中で残量を再確認した。昨夜の五時間睡眠で得た五負荷から、既に朝に一負荷を使い、残り四負荷。今回の治療は軽度〜中等度に相当すると見積もり、一負荷を消費することが妥当だ。彼女はトマに触れた。冷たい皮膚、浅い呼吸。痛みは鋭く、胸に鈍い圧迫を残している。彼女は痛みを引き取り、確かにそれが体内でうねるのを感じた。鋭い断続的な刺激が掌の中で銀の薄片へと固まってゆく。
出来上がった銀貨の表面に、細い黒線が一本走っていた。それは巻物の黒線と同じ墨の色をしている。リゼットはそれを指で取ると、ゆっくりと空にかざした。「通常ならば、このまま王庫へ送られる」と彼女は母に告げた。「だが今日は、町の共同基金へ入れます。誰が何を失い、何を受け取るかを明確にし、隠し事はしない。あなたたちの選択はここに刻まれる」
ミナが作った分配器に銀貨を差し入れる。装置は金属を帳簿のデータに変換する機構を備えている。金貨は砕けるのではなく、柔らかな白い帳票へと変化し、その上にトマの病状、必要な休業日数、家族の合意、負担割合の推奨が印刷されていく。黒い線は白い帳票の一行に点として落ち、そこから細い白線が署名へと伸びていった。視覚的な変化は、痛みの流れがただ王府へ還元されるのではなく、町の記録へと組み込まれることを示した。
広場は一瞬静まり返った。人々はそれを見て、何かが変わったことを理解し始める。黒線は消えたわけではない。だが向きが変わり、痛みは可視化された負担として帳簿に刻まれた。リゼットは説明を続けた。「これが透明な治療です。痛みは帳簿に残す。代償を隠さない。皆で分け合う仕組みを作る」
聖務院の役人たちは黙ってはいない。巻物を取り戻そうと手を伸ばし、広場は一瞬の騒然となる。そこでヴァルドが大声で命じた。「止めろ!」彼の声は軍隊の号令のように響き