傷貨の聖女 第24話「第22章」
地下の空気が、いつもより重かった。黒い線は壁の割れ目を伝い、鈍い脈動を繰り返している。光を受けた金属の表面が、まるで血管のように浮き上がって見える。誰かの名前がそこに刻まれていると知りながら、それは確かに「線」になって流れていく。回収路の中心が崩れかけている。もしあの一点が破裂すれば、全国の傷の記録が一斉に流れ込み、王庫へと還元されてしまう。そうなれば、黒い路は貨幣の洪水となって世界を塗り替えるだろう。
地下の空気が、いつもより重かった。黒い線は壁の割れ目を伝い、鈍い脈動を繰り返している。光を受けた金属の表面が、まるで血管のように浮き上がって見える。誰かの名前がそこに刻まれていると知りながら、それは確かに「線」になって流れていく。回収路の中心が崩れかけている。もしあの一点が破裂すれば、全国の傷の記録が一斉に流れ込み、王庫へと還元されてしまう。そうなれば、黒い路は貨幣の洪水となって世界を塗り替えるだろう。
「計算が出た。ここを止めるには、相当量の負荷が必要だ」セインは息を切らしながら言った。彼の手には、地下回廊の構造と各線の流速を示す帳簿がある。墨の字が震えて見えた。紙に書かれた数値は、彼がかつて王庫の帳面を盗み見て見たものよりさらに冷たい。
「その『相当量』というのは?」ノエラが問い、その声には医師としての冷静さと、一片の恐れが混じっていた。
「単純に考えれば、リゼットが自らの寿命を貨幣化するに等しい荷重を受ける必要がある」セインは顔を伏せた。「現場では〈寿命を貨幣化する〉という言い方だった。治癒の限界を遥かに越えた時に現れる、――あの表記が意味するところは、彼女の残存寿命の一部が金属に転移するということだ」
リゼットはその場でじっと黙ったまま、黒い線を見つめていた。胸の中に、いつものように冷たい計算の光が差す。前世の彼女――榊澪だった時に抱えていた、数字を見抜くという職業病だ。数は裏切らない。だが、人の命を数字に直すという職能の端にいたわたしは、その数が何を忘れているかを知っている。
「一人でそんな代償を払うつもりはない」リゼットの声は、思ったよりも静かだった。が、その静けさは決して弱さではなかった。「私が一人で払えば、確かに回廊は止まるかもしれない。だがそれはまた、同じ仕組みを肯定することになる。痛みを一箇所に集中させ、貨幣にしてしまう――それを正当化する人々にとって、一番鈍い解決だ。それに、能力の禁止事項にもある。無理をすれば寿命が貨幣化されるとある。だから、私は見殺しを選びたくないが、同時に自身の寿命を単独で差し出すつもりもない」
「ではどうする」ガルドが前へ踏み出した。手はいつもの場所、胸の上にある。そこに古い縫い傷が見え、指先がその沿いを無意識にたどる。彼の目は真剣だった。組合代表としての責務が滲んでいる。「俺たちで分けるしかない。ここにいる者全員で。町の連中、近隣の村、海港にも声をかける。少しずつなら――」
「分割は可能だが、条件がある」ミナが肩越しに器具を抱え、冷たい声で続けた。彼女の手の指先はまだ煤で黒い。ミナの作った『分配器』は既に幾つか改良されているが、根本の原理は変わらない。傷貨の量を小さく分割し、複数の人間の負荷として一時的に具現化させることで、単体にかかる負担を下げる。だがそれは完全に安全だとは言えない。分配された負荷は結局、誰かの体の一部、眠りや記憶、時には寿命へと転化する危険を孕む。
「装置で分割しても、最終的にそれぞれが負担を引き受けることは変わらない」ノエラが言う。「しかもここは王庫への導線の真上だ。金属を王庫へ流さず、基金として安定させるためには、各人の同意と、透明な記録が必要だ。無作為に分配してはならない」
「同意? あの場の誰も酔って署名するわけにはいかんだろう」ガルドが苦笑した。「だが、ここで止めないと皆が死ぬ。選ぶ時間はない」
セインが手を投げ出した。「時間はある。だがそれは、見切り発車の同意ではない。私が広報を一手に引き受ける。既に地下の一部に封書を走らせた。王都と敵対しても構わん。だが正当な形式でなければ、後で大混乱を招く」
リゼットは周囲の顔を一つ一つ見渡した。ノエラの眼差しは医師としての誠実を訴え、ミナは器具の調整を続ける指を止めない。ガルドは既に、組合の消息筋へ向けて軍配を上げている。セインは帳簿と一緒に走り回るつもりらしい。そこにヴァルドが来ると、空気が一瞬固まった。彼は以前のような敵対者の仮面を外し、ただ一人の老人のように見えた。右手を胸に当てる彼の所作は、今や自己正当化を剥がされた痛みの告白だ。
「我々は前に進む。だが、各人の負担を限界まで低くする。ミナ、装置で分割できる最大数は?」リゼットが訊いた。
ミナの眉がぴくりと上がる。「理論上は百まで。だが実際には、装置の素材と入力の安定性の問題がある。多分三十から五十の分割が安全圏だが、それでも完全な無害ではない。更に、分割した金属片は共同基金に入れなければ安定貨幣にならない。抵抗があると線は王庫へと吸い寄せられる」
「三十から五十だと、まだ一人当たりの負担が大きい人も出る」ノエラが言った。「特に睡眠量で総負荷が決まるなら、今すぐの夜勤で追加の『負荷容量』は作れない。分配する相手は、あらかじめ睡眠をとった者、若い者、健康な者に偏る可能性がある」
リゼットはゆっくりと深呼吸した。眠りによってしか増やせない『一日あたりの負荷』という制限は、彼女の能力の根幹であり、誤魔化せない。彼女が無理をした時の代償――記憶の欠落、そして寿命の欠片が金属になること――それを一度でもやれば、彼女は制度に利用される道具となってしまう。
「だからこそ……」リゼットは言葉を選んだ。「私たちは分配と同意を同時にやる。ここにいる全員が、その負担を理解し、署名してもらう。だが署名だけではない。遠隔で参加を申し出る町や村にも、代表を出してもらう。ガルド、あなたの組合網を使ってくれ。セインは宣誓書の形式を整え、ノエラは医的同意書と負担可能範囲のガイドラインを作成する。ミナは装置の分割性を向上させ、最大限の分散を狙う。全て記録して、基金へと入れる――王庫へは行かせない」
ガルドは一瞬逡巡したが、すぐに表情を引き締めた。「それでいい。俺は、各坑道ごとの代表をまとめる。眠れる者は今夜眠らせる。分散して負担するのだ。誰も強制はしない。だが、ここを止める必要はある」
作戦は、すぐに動きだした。セインは古い筆写機で宣誓書を刷り、町の掲示板へ走らせる。ノエラは治療のための同意書を簡潔に書き上げ、複数の言語で説明を書いた。ガルドは坑道連絡網を通じて、各区の代表に伝令を送る。ミナは分配器を持って地下回廊の一端へ行き、調整する。リゼットは自らの負荷残量を手のひらで確かめた。眠りの量は十分ではない。今日の緊急救命で既に一負荷を消費している。残りは五負荷ほど。だがそれは、もし分配がうまくいかない場合のバックアップに過ぎない。
「重要なのは同意と透明性だ」リゼットは繰り返した。「誰の苦痛をどれだけ受けたかを帳簿に刻む。誰が負担を引き受けたか、誰が拒んだか、それを隠さない。黒い線を消すのではない。白い線で繋いで、そこに何があったかを刻む」
夜が迫るにつれ、外から徐々に人の気配が近づいてきた。鉱夫たち、町の婦人たち、近隣の村の代表、海港の代議士。彼らはそれぞれ小さな灯を持ち、胸に右手を当てながら列を作って地下に入ってくる。その姿は祈りにも見え、誓いにも見えた。最初は誰もがぎこちなく、かつての習慣――痛みを隠すための所作――がそのまま出る。だがリゼットはその右手を、その場で宣誓の手にしていく。
「ここで何をす