傷貨の聖女 第22話「第20章」
穴は王都の地表からは想像もつかないほど深く、石造りの通路を進むほどに外の光は薄れていった。空気は冷え、金属の匂いが混じっていた。床の継ぎ目で小さな震えが伝わり、それは地下の巨大な機械の鼓動だとリゼットは直感した。ミナのランタンが淡い青を放ち、ノエラの足音だけが確かなリズムを刻む。ガルドは前を歩きながら時折胸元に手を当て、その仕草がここでは祈りでも合図でもないことをリゼットは改めて思った。痛みの記憶を示すものだ。ヴァルドは後ろで黙っていた。彼の右手も、頻繁に胸に触れては離していた。
穴は王都の地表からは想像もつかないほど深く、石造りの通路を進むほどに外の光は薄れていった。空気は冷え、金属の匂いが混じっていた。床の継ぎ目で小さな震えが伝わり、それは地下の巨大な機械の鼓動だとリゼットは直感した。ミナのランタンが淡い青を放ち、ノエラの足音だけが確かなリズムを刻む。ガルドは前を歩きながら時折胸元に手を当て、その仕草がここでは祈りでも合図でもないことをリゼットは改めて思った。痛みの記憶を示すものだ。ヴァルドは後ろで黙っていた。彼の右手も、頻繁に胸に触れては離していた。
通路が開けると、視界は一変した。広い空間の中央を、黒く光る線状の金属が放射状に伸び、どれも先を一点に向かっていた。線は太く、継ぎ目や溶接の跡が無機質に光る。空間の壁面には無数の小さな窓があり、その中に人名が浮かんでいた。文字は薄い灰色の光を放ち、線に沿って流れている。近づくと、名前の一つが微かに振動し、遠い記憶のような呻き声が混じった。ミナが小さく息をのんだ。
「……これが、回廊なのね」彼女の声は震えていたが、手は器具ケースに置かれたまま動かなかった。セインは壁の端にある古い刻印を指差した。欠けた五つ目の紋章がここでも、半ば埋められたように見えた。五本の突起のうち一本だけが欠け、その裂け目からかすかな光が漏れていた。リゼットはそれに視線を固定した。初代聖女の名を消した痕跡が、ここまで伸びている。
中央の一点を支える大きな筒――王庫へと繋がる主導管だろう――に近づくに連れて、黒線の一本一本が音を帯びて震えた。耳鳴りのような低周波が体内へ伝わる。ガルドの額に汗が浮かぶ。彼は小声で言った。「一度に切ったら、大陸の流通が止まる。支えにされてきた町の生活が崩れる。子供たちの食い扶持が無くなるかもしれない」
「それでも、あれを放置するわけにはいかない」ノエラが低く答えた。刃物のように冷たい響きだ。リゼットは二人の視線の間で立ち止まり、筒の先端へ目をやった。そこから黒い脈が地上の王宮まで延びているのが見える気がした。脈は一度に多くの名を吸い込み、磨き上げられた貨幣に変えていく。だがその表面には、先刻見たように細い黒線が走る。誰かの痛みが「転送」される経路が、ここだ。
セインがゆっくりと書類を取り出した。彼はここへ来るために、王庫の古地図といくつかの許可証を偽造した人物ではあるが、紙を手にすると別人のように落ち着いて見えた。「全停止は、経済の崩壊に直結する。だが段階的な分離ならば可能だ。王庫へ直送されるラインを部分的に切り替え、まずは地方単位で共同基金へ流せるようにする。書面と署名があれば、法理的な正当性を持たせられる」
リゼットは思わず息を吐いた。頭の奥で、前世の査定の癖が反応する。数字だけを切り分ければ、犠牲と利益を冷徹に割り出せる。しかし彼女はもう一人で数の上で命を決めるつもりはなかった。能力の代償を一人で負うことも、寿命を金貨にして問題を終わらせることも拒否した。ここにいる人々の同意と、各地の代表の意思が必要だ。だが今、目の前には流れてくる名前と、途絶えさせれば生活が途切れるという現実がある。
「どうやって、記録への同意をここで得るんだ?」ミナが問いかけた。彼女の器具ケースの蓋を開き、小さな金属板を取り出す。それは彼女がこの場で幾度も試作してきた、負担を分配するための小さなノードだった。板の表面には、署名を書くための溝が刻まれている。リゼットは理解した。物理的に線を切るのではなく、情報の流れを差し替える。誰かの名前がここを通るとき、その送信先を一時的に書き換え、共同の受け皿に逃がすことができれば、王庫へ集められる痛みの流れを減らせる。
「だが、それには各区画の承認が必要だ」ガルドが付け加える。「地下に届く前に、『ここの分は共同基金へ』と書かれた正当な命令が必要だ。でなければ監査にかけられたとき、すべて不正送金扱いにされる」
「だから書面を用意した」セインはその書類をリゼットに差し出した。「各地の代表たちに署名してもらった暫定合意書。王都の監査が来た場合でも、順序立てて回収路を分離できるようにする。強引に止めれば混乱を招くが、段階的に分配を始めれば、通貨の崩壊は最小限に抑えられる。……だが、それには物理的な作業も必要だ。分配ノードをここに埋め込む。ミナ、器具は足りるか?」
ミナは小さくうなずいた。「改良した分配器は、この穴の各接点に挿し込めば、流路を二つ、三つに分けられる。ただし、完全に遮断することはできない。あくまで迂回させるだけ。しかも、そこに流れる痛みを共同基金が受け取るには、地域住民の承認が必要になる。証文をここに刻めば、黒線は白線に変わるかもしれないけど――それは、ここで見ているだけのものじゃない。誰かが読める記録でなければ、ただの改竄で終わる」
言葉の重さが闇に吸い込まれる。リゼットは黒線に伸ばされた指先を思い浮かべた。もし自分が直接手を伸ばして、瞬時に多くの名前を撫でるように癒し、痛みを取り除いたら。目の前の筒を塞ぐことだってできるはずだ。だがそれは、彼女の眠りや記憶、あるいは寿命を代償にする選択肢だと、能力のルールは明確に告げていた。能力は同意の上で、かつ睡眠に基づく上限がある。不測の事態で寿命を摘み取れば、救われた数があろうとも誰かの苦しみを背負わされる。それを避けるためにここへ来たのだ。
「私たちだけの手でやれる範囲から始めよう」リゼットは静かに言った。「まずは、本日の分を分配する。ミナ、挿入ノードをいくつか渡して。セイン、君はその場で受領書を作って。ガルド、ノエラ、ヴァルド、あなたたちが地域の代表たちに代わって署名してくれ。私はここで流れてくる名簿の束を見張る。個々の名前がここを通る前に、送信先を書き換える。強制はしない。だが通すかどうかを選べる状態を物理的に作る。最初は小さく、確実に」
ヴァルドの顔に、かすかな表情の変化が走った。彼はその手の指を、胸から離し、静かに前に一歩出た。「……俺がやる。あの管路の弁を操作できる。かつて俺は、緊急時に一本だけを直送する手続きを使ったことがある。法がどうであれ、現場の判断で弁を開け閉めした。だが今回は、言われるままに閉じるわけにはいかない。分配ノードに許可証を差し込む。そこに複数の署名があれば、俺の操作は正当なものとして通るはずだ」
リゼットはヴァルドの手の震えに気づいた。彼の右手が時折胸へ戻るのは、痛みからだけではなかったのだろう。罪と責任とが混ざり合う習慣。リゼットは小さくうなずいた。「やってくれるか。君があの弁を操作してくれれば、私たちはここで暴走しない。君の名前が、公の記録として残る。逃げ場はないが、誰かが責任を負っているとはっきり示せる」
作業は思った以上に細かなものだった。ミナは分配ノードを黒い線の節目に挿し込み、内部構造を手早く組み替えていく。器具は彼女が作った小さな歯車とカラムで構成され、外見は粗末だが精密だった。ノエラは周囲を警戒し、セインは書類を広げて署名欄を繰り、ガルドは暗い通路の入り口で息を潜める。リゼットは流れてくる名簿を手に取り、一つひとつの名前と目を合わせる気分でページをめくった。行の端にある小さな数