呼吸する街路樹の下で 第4話「第3章:覗き見の熱狂」
ハルの言葉は、梓の胸に深く刺さった。「沈黙を守る」――それは、今のこの狂騒の街において、最も困難で、かつ最も必要なことに思えた。 翌日、事態はさらに悪化していた。インターネット上では「言の葉マップ」なるサイトが立ち上がり、どの街路樹にどんな衝撃的な告白が浮かんでいるかがリアルタイムで共有されるようになっていた。人々は宝探しでもするかのように、スマホの画面と木々の葉を交互に見つめ、扇動市の夜を徘徊した。 それは一種の集団ヒステリーだった。ある者は浮気の証拠を見つけて狂喜し、ある者は同僚の陰口を見つけて憤慨した。街路樹の葉は、プライバシーという最後の防波堤を無残に決壊させる「凶器」と化していた。
ハルの言葉は、梓の胸に深く刺さった。「沈黙を守る」――それは、今のこの狂騒の街において、最も困難で、かつ最も必要なことに思えた。
翌日、事態はさらに悪化していた。インターネット上では「言の葉マップ」なるサイトが立ち上がり、どの街路樹にどんな衝撃的な告白が浮かんでいるかがリアルタイムで共有されるようになっていた。人々は宝探しでもするかのように、スマホの画面と木々の葉を交互に見つめ、扇動市の夜を徘徊した。
それは一種の集団ヒステリーだった。ある者は浮気の証拠を見つけて狂喜し、ある者は同僚の陰口を見つけて憤慨した。街路樹の葉は、プライバシーという最後の防波堤を無残に決壊させる「凶器」と化していた。
中央公園のイチョウの木は、凛子の名前が発見されたことで、今や聖地のような扱いを受けていた。木の周囲には、昼夜を問わず動画配信者が陣取り、「行方不明女子高生の謎を追う!」といった刺激的なタイトルで生配信を続けている。
「ほら、見てください皆さん! これが例の『言の葉』です。はっきりと凛子という名前が見えますね。その下の『ごめんなさい』……これ、誰に対する謝罪だと思いますか? コメント欄で予想してみてください!」
自撮り棒を掲げた男の軽薄な声が、夜の公園に響き渡る。
「パパ活でトラブルになったんじゃないかとか、実は妊娠してたんじゃないかとか、いろんな噂が出てますけど……真相はこの葉っぱが知っているってわけです!」
無責任な憶測が、デジタル空間を通じて瞬く間に拡散され、増幅されていく。梓はその場に立ち尽くし、親友の魂が切り売りされていく光景を、ただ見ていることしかできなかった。
心ない言葉の数々が、物理的な熱となって梓の肌を刺す。気温はついに三十八度に達し、風は熱風となって街を駆け抜けていた。アスファルトからはゴムが焦げたような臭いが漂い、都市全体が発熱しているようだった。
梓は、自分の喉の奥にも、熱い何かが溜まっていくのを感じた。それは、この狂った世界に対する怒りであり、同時に、何もできない自分への絶望だった。
「どうして……どうしてみんな、こんなに残酷になれるの?」
呟きは、誰に届くこともなく、熱い風にさらわれて消えた。
梓は学校が終わるとすぐに公園へ向かった。ハルはすでにそこにいた。彼はどこからか持ってきた古い木材や布を使って、イチョウの周囲に小さな囲いを作ろうとしていた。
「手伝って」
ハルに言われ、梓も必死になって作業に加わった。
「何してるんだ、君たち! そこは公共の場だぞ!」
通りがかった中年女性が声を荒らげる。
「私たちは、この木を守っているだけです」
梓は毅然と言い返した。
「守る? 何を言ってるの。こんな気味の悪い木、早く切り倒してしまえばいいのに。他人の秘密なんて見たくもないわ。でも、見えてしまうのが迷惑なのよ」
女性の言葉には、矛盾した欲望と嫌悪が混ざり合っていた。見たくないと言いながら、彼女の目は執拗に凛子の名前を探している。
「人は、沈黙する権利を持っています」
ハルが静かに、しかし地響きのような重みを持って言った。
「この木が吸い上げているのは、ただの文字じゃない。その人が、その時、どうしても外に出せなかった魂の重みだ。言いたくても言えない、あるいは言うべきではないと判断して飲み込んだ言葉。それは、その人のアイデンティティそのものなんだ。それを他人が勝手に解釈し、娯楽として消費するのは、魂の略奪に等しい行為だと思わないか?」
ハルの瞳には、女性の姿ではなく、彼女の背後に広がる都市の歪みそのものを見据えているような鋭さがあった。女性は言葉に詰まり、顔を赤くして足早に立ち去った。
だが、個人の反発などは、これから訪れる嵐の予兆に過ぎなかった。
扇動市の「言の葉」現象は、すでに一自治体の問題を越え、国レベルの議論にまで発展していた。プライバシー保護団体は木を隠すべきだと主張し、表現の自由を叫ぶグループは情報の公開を求めた。そして最も大きな声は、この混乱を早期に収束させろという、不安に駆られた市民たちの叫びだった。
夕暮れ時、公園の入り口に数台の黒塗りの車と、市役所のロゴが入った大型の作業車が停まった。車体には「扇動市環境整備局」の文字が刻まれている。
車から降りてきたのは、警備員を引き連れた役人たちだった。彼らの手には、伐採の許可証と思われる書類と、鋭い刃を持つ工具が握られていた。