呼吸する街路樹の下で

呼吸する街路樹の下で 第3話「第2章:葉に刻まれた名前」

中央公園のイチョウは、他の街路樹よりも一段と強く光を放っていた。 その周囲には、すでに十数人の野次馬が集まっていた。ライトアップされたかのような黄金色の葉を、人々が物珍しそうに眺めている。 「ねえ、あそこの葉っぱ、名前が書いてない?」 誰かの声に、梓の心臓が激しく脈打った。人混みをかき分け、最前列に出る。 そこには、イチョウの枝の先端に近い一枚の葉に、はっきりと刻まれていた。 『凛子』 そしてその下には、掠れたような文字でこう続いていた。 『ごめんなさい。助けて』 「凛子……!」 梓は思わず叫んでいた。間違いない、凛子の言葉だ。彼女はどこかで生きていて、誰にも言えない助けを求めている。 周囲の

中央公園のイチョウは、他の街路樹よりも一段と強く光を放っていた。
 その周囲には、すでに十数人の野次馬が集まっていた。ライトアップされたかのような黄金色の葉を、人々が物珍しそうに眺めている。
「ねえ、あそこの葉っぱ、名前が書いてない?」
 誰かの声に、梓の心臓が激しく脈打った。人混みをかき分け、最前列に出る。
 そこには、イチョウの枝の先端に近い一枚の葉に、はっきりと刻まれていた。
『凛子』
 そしてその下には、掠れたような文字でこう続いていた。
『ごめんなさい。助けて』
「凛子……!」
 梓は思わず叫んでいた。間違いない、凛子の言葉だ。彼女はどこかで生きていて、誰にも言えない助けを求めている。
 周囲の人々が一斉にスマホを向けた。
「うわ、これ行方不明のあの子じゃない?」
「『助けて』だって。事件性あるんじゃね?」
 無機質なシャッター音が響く。梓は反射的に、イチョウの幹にしがみついた。
「やめてください! 撮らないで!」
 だが、少女の叫びなど、熱狂する大衆には届かない。彼らにとってこれは、夏の夜の暇つぶしに過ぎないエンターテインメントなのだ。
「どきなよ、お嬢ちゃん。邪魔だよ」
 ガムを噛んだ男が梓を突き飛ばそうとしたその時、横から伸びてきた手が男の腕を掴んだ。
「……やめておけ。木が怒っている」
 低い、透き通った声だった。
 振り返ると、そこにはボロボロのパーカーのフードを深く被った青年が立っていた。年齢は二十代前半くらいだろうか。その瞳は、周囲の喧騒とは無縁の、深い森の湖のような静けさを湛えていた。
 男は青年の気迫に押されたのか、舌打ちをして去っていった。
「君が、この言葉の主の友人か」
 青年は梓を見つめて言った。
「私はハル。この木たちの声を聴く者だ」
 ハルと名乗った青年は、光るイチョウの葉に優しく触れた。その瞬間、葉の光が一段と強まり、梓の耳に微かな、すすり泣くような音が聞こえた。
「その葉は、もうすぐ熱で燃える。彼女の心が限界に来ている証拠だ」
 ハルの言葉に、梓は血の気が引くのを感じた。
「凛子を……凛子を助けなきゃ。どうすればいいんですか?」
「言葉を守るんだ」
 ハルは空を見上げた。そこには、星も見えないほどに赤く染まった、熱帯の夜空が広がっていた。
「誰にも読ませず、誰にも触れさせず、本人が自分の声で語れるようになるまで。沈黙を守るんだ」