眠りのない村の夢配達 第8話「第7章:偽りの安息」
灯は夜糸の館から逃げ出した。背後で夜糸の冷ややかな笑い声が響いていたが、彼女は一度も振り返らなかった。館の門を出た瞬間、外の空気はさらに冷え込み、霧は墨を流したような黒色を帯びていた。 村に戻った灯を待っていたのは、想像を絶する光景だった。 村長・玄造の命令で「夢の配達」が禁じられた結果、住民たちの精神は完全に限界を超えていた。赤い実の効果ももはや気休めにもならず、広場では人々が幽霊のように彷徨い、意味のなさない言葉を呟き合っている。壁に頭を打ち付ける者、虚空に向かって叫ぶ者、あるいは力尽きて地面に倒れ伏す者。それはまさに地獄絵図だった。 「灯……助けて……眠らせてくれ……もう、一秒も起きてい
灯は夜糸の館から逃げ出した。背後で夜糸の冷ややかな笑い声が響いていたが、彼女は一度も振り返らなかった。館の門を出た瞬間、外の空気はさらに冷え込み、霧は墨を流したような黒色を帯びていた。
村に戻った灯を待っていたのは、想像を絶する光景だった。
村長・玄造の命令で「夢の配達」が禁じられた結果、住民たちの精神は完全に限界を超えていた。赤い実の効果ももはや気休めにもならず、広場では人々が幽霊のように彷徨い、意味のなさない言葉を呟き合っている。壁に頭を打ち付ける者、虚空に向かって叫ぶ者、あるいは力尽きて地面に倒れ伏す者。それはまさに地獄絵図だった。
「灯……助けて……眠らせてくれ……もう、一秒も起きていられないんだ……」
かつて彼女を「夜糸の手先」と罵倒した男が、泥にまみれた手で灯の足元に縋り付いてきた。その目はもはや焦点が合わず、瞳孔は開ききっている。彼の体からは、微かな銀色の煙のようなものが立ち上っていた。それは記憶が内側から崩壊し始めている兆候だった。
灯は激しい葛藤に襲われた。夜糸の正体が自分自身の一部であるなら、彼女には夜糸の力を操る資格があるはずだ。彼女は、館で見た「完璧な布」の紋様を思い浮かべた。あれを使えば、人々に「痛み」を一切感じさせない、永遠の安眠を与えることができるのではないか。それは彼らが切望している救いそのものではないか。
彼女は落ちていた炭を拾い、広場の中心に巨大な円を描いた。そして、その中に夜糸の館で見た「忘却の紋様」を、記憶を頼りに書き込んでいく。
「みんな、ここへ来て! この中に入れば、もう苦しまなくていいの! 全ての痛みを忘れて、眠りにつけるわ!」
灯の叫びに誘われ、住民たちが次々と円の中に吸い込まれていった。まるで光に集まる羽虫のように、彼らは自ら進んで忘却の淵へと身を投じた。
紋様が青白く光り出すと、住民たちの顔から苦悶の表情が消え、穏やかな、だが感情の欠落した笑みが浮かんだ。彼らはその場に座り込み、吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。
灯は安堵した。これで救われたのだと自分に言い聞かせた。だが、数時間が経過した頃、彼女は取り返しのつかない異常に気づいた。
眠りについた人々の影が、地面から切り離されるように薄くなっているのだ。彼らの肌は次第に硬質化し、温かみを失い、館で見たあの「空っぽの器」へと変貌しつつあった。
眠っているはずの長治の隣で、灯は彼の微かな呟きを聞いた。
「……誰だっけ……あの、スープ……誰が……作ってくれた……思い出せない……」
長治の顔から、亡き妻が作ってくれたスープの記憶が、そして妻自身の顔が、砂時計の砂のように零れ落ちていく。それは単なる安眠ではなかった。その人間がこの世に生きてきたという軌跡そのものの抹消だった。
灯は戦慄した。彼女が与えたのは「救い」ではなく、「死」よりも冷酷な「存在の消去」だったのだ。夜糸の館が巨大な脈動を始め、村の周囲の霧がさらに濃くなっていく。人々の記憶が消えるたびに、怪異は力を増していた。