眠りのない村の夢配達 第6話「第5章:記憶の織機」
その夜、灯は自宅の窓から抜け出した。 監視の目は、不眠の極致にある男たちの疲労によって、驚くほど疎かになっていた。灯は霧の中を、音もなく走り抜けた。向かう先は、村の誰もが近づこうとせず、視界に入れることさえ忌み嫌う場所――「夜糸の館」だ。 道具は奪われたが、灯の指先にはまだ絵の具の匂いが染み付いていた。そして、彼女の頭の中には、夜糸が残した言葉が、暗い旋律のように繰り返されていた。 『君のスケッチブックの隅に、いつも何を描き忘れているのかを』 館の門は、灯が近づくと、彼女を招き入れるように音もなく開いた。門をくぐった瞬間、空気の質が変わった。外の湿った霧とは違う、乾燥した、どこか古びた紙のよう
その夜、灯は自宅の窓から抜け出した。
監視の目は、不眠の極致にある男たちの疲労によって、驚くほど疎かになっていた。灯は霧の中を、音もなく走り抜けた。向かう先は、村の誰もが近づこうとせず、視界に入れることさえ忌み嫌う場所――「夜糸の館」だ。
道具は奪われたが、灯の指先にはまだ絵の具の匂いが染み付いていた。そして、彼女の頭の中には、夜糸が残した言葉が、暗い旋律のように繰り返されていた。
『君のスケッチブックの隅に、いつも何を描き忘れているのかを』
館の門は、灯が近づくと、彼女を招き入れるように音もなく開いた。門をくぐった瞬間、空気の質が変わった。外の湿った霧とは違う、乾燥した、どこか古びた紙のような匂いが漂っている。
内部は、外観からは想像もつかないほど広大で、幾何学的な構造をしていた。高い天井からは、数え切れないほどの銀色の糸が垂れ下がり、微かな風に揺れてサラサラと、まるで誰かの囁き声のような音を立てている。その一つ一つが、誰かの記憶であり、誰かの失われた夢なのだ。
灯は息を呑みながら、館の奥へと進んだ。そこには、部屋全体を占拠するかのような巨大な木製の織機が鎮座していた。
カタン、コトン。カタン、コトン。
誰もいないはずの空間で、織機が意志を持っているかのように動いている。横糸として通されているのは、先ほど広場で燃やされたはずの「紙の夢」の残滓のような、淡い色彩の断片だった。そして縦糸は、サワや長治たちから奪われた銀色の記憶だ。
二つの糸が交わり、一枚の布が織り上げられていく。その布の紋様を見た瞬間、灯は激しい目眩を覚えた。
それは、彼女がこれまで描いてきた「夢」の絵そのものだった。だが、決定的な、そして致命的な違いがあった。彼女の絵にはなかった「影」や「痛み」、そして「残酷な真実」が、布の上では鮮やかな、血の通った色彩で表現されていた。
「……そうか。私は、綺麗なところだけを切り取って描いていたんだ。人々の痛みを、彼らが最も直視したくない真実を、見ないふりをして。私の優しさは、ただの独りよがりな欺瞞だったのね」
灯は震える手で、織りかけの布に触れた。布の表面は驚くほど滑らかで、それでいて氷のように冷たかった。
サワのために描いた「子供の足元」の絵。その続きが、布の上には克明に、そしてあまりにも残酷に織り込まれていた。それは、病に伏せる子供を抱きしめながら、絶望の中で神を呪うサワの姿だった。彼女が最も忘れたかった、そして最も愛おしかったはずの、最期の時間の記録。灯が描かなかった「痛み」の部分を、夜糸は糸として回収し、ここで一つの物語として完成させていたのだ。