眠りのない村の夢配達 第4話「第3章:夜糸の囁き」
「ああ、なんて美しい糸だろう。母の愛と、絶望の混ざり合った、極上の銀色だ。これほど純度の高い記憶は、数年に一度しかお目にかかれない」 背後から聞こえてきた、氷の結晶が擦れ合うような冷ややかな声に、灯は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受け、跳ね上がるように振り返った。 いつの間にか、部屋の入り口に人影が立っていた。それは、夜の闇そのものを切り取って縫い合わせたような、深い黒の外套を纏い、顔の半分を植物の蔓を思わせる精巧な細工の施された白い仮面で覆った長身の人物だった。その指先は驚くほど長く白く、手には銀色の糸を巻き取るための、禍々しい装飾が施された黒檀の糸巻きが握られている。 「夜糸……!」 灯
「ああ、なんて美しい糸だろう。母の愛と、絶望の混ざり合った、極上の銀色だ。これほど純度の高い記憶は、数年に一度しかお目にかかれない」
背後から聞こえてきた、氷の結晶が擦れ合うような冷ややかな声に、灯は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受け、跳ね上がるように振り返った。
いつの間にか、部屋の入り口に人影が立っていた。それは、夜の闇そのものを切り取って縫い合わせたような、深い黒の外套を纏い、顔の半分を植物の蔓を思わせる精巧な細工の施された白い仮面で覆った長身の人物だった。その指先は驚くほど長く白く、手には銀色の糸を巻き取るための、禍々しい装飾が施された黒檀の糸巻きが握られている。
「夜糸……!」
灯の喉が恐怖で引き攣り、まともな声が出なかった。村の子供たちが寝物語に聞かされる、あの恐ろしい怪異の主が、今、実体を持って目の前にいた。彼の周囲だけ、霧が意志を持っているかのように不気味に渦巻き、部屋の隅々にまで冷たい死の気配が浸透していく。
「灯、君の描く絵はいつも素晴らしい。君が人々に偽りの安らぎを与えるたびに、彼らの記憶は逃げ場を失って内側で熟成され、これ以上ないほど純度の高い糸になる。君は私のために土を耕し、実りを待つ最高の耕作者だ」
夜糸の声は、低く心地よい旋律のようでありながら、聞く者の魂を凍りつかせる魔力を持っていた。彼は優雅な所作で糸巻きを回し、サワの頭頂部から伸びる銀の糸を丁寧に、慈しむように巻き取っていく。糸が巻き取られるたびに、サワの体からは人間らしい温かみと生気が失われ、その肌は月光に照らされた陶器のように白く透けていった。彼女の存在そのものが、その細い銀糸の中に吸い込まれていくようだった。
「やめて! 彼女から何を奪うつもりなの! 彼女はただ、息子さんに会いたかっただけなのに!」
「奪う? 違うよ、灯。私は彼女を救っているんだ。彼女は、息子を失ったという耐え難い苦痛を『忘れたい』と願った。私はその願いを聞き届け、彼女の脳からその『重荷』を取り除いてあげているだけだ。忘却こそが、人間に与えられた唯一の真実の慈悲なのだよ」
夜糸は仮面の奥で目を細めた。
「見てごらん。彼女は今、夢の中であの子と再会している。この糸が全て巻き取られれば、彼女はもう悲しむ必要もなくなる。息子という存在そのものを忘れるのだから。愛も、悲しみも、執着も、全てはこの糸の中に封じ込められる」
「そんなの、救いじゃない! 記憶を失ったら、彼女はもうサワさんじゃなくなってしまう!」
灯は夜糸に向かって駆け寄ろうとしたが、目に見えない冷たい壁に阻まれ、床に膝をついた。
「君だって知っているはずだ、灯。人間にとって、記憶とは呪いだ。特にこの村の人々にとってはね。彼らはあまりにも多くの痛みを抱えすぎた。だから私は、彼らの代わりにその痛みを預かり、美しい布へと織り上げている。それは永遠に劣化することのない、純粋な感情の標本だ」
夜糸は巻き取りを終えると、満足げに糸巻きを懐に収めた。サワはもう動かなかった。呼吸はしているが、その瞳には光がなく、揺りかごを揺らす手の動きも止まっていた。彼女は生きながらにして、中身のない殻になってしまったのだ。
「君の『配達』は、これからも続けてほしい。君が人々の心を揺さぶれば揺さぶるほど、私の織機はよく回る。……灯。君がなぜ眠れるのか、本当の理由を知りたくはないか? 君のスケッチブックの隅に、いつも何を描き忘れているのかを」
夜糸の姿が、霧の中に溶けるように消えていく。最後に、彼の囁きだけが耳に残った。灯は震える手で自分のスケッチブックを握りしめた。サワの家には、ただ冷たい霧と、心を失った一人の女性だけが残された。