眠りのない村の夢配達 第3話「第2章:失われた子守唄」
村の端にある、小さなパン屋の跡地。そこにはサワという名の女性が一人で暮らしていた。彼女はかつて、村で一番美味しいパンを焼くことで知られていたが、三年前の「あの日」以来、一度も小麦粉に触れていない。店の釜は冷え切り、かつて香ばしい匂いが満ちていた店内には、今やカビ臭い霧が澱んでいる。 灯が訪ねると、サワは薄暗い部屋の隅で、空の揺りかごを揺らしていた。ギィ、ギィと、乾燥した木が擦れる音が、静まり返った部屋に虚しく響く。 「灯ちゃん……。お願い、今日こそは……あの子の夢を見せて。あの子の声を、一度だけでいいから聞かせてほしいの」 サワの訴えは、切実を通り越して、狂気を含んでいた。彼女は三年前、流行病
村の端にある、小さなパン屋の跡地。そこにはサワという名の女性が一人で暮らしていた。彼女はかつて、村で一番美味しいパンを焼くことで知られていたが、三年前の「あの日」以来、一度も小麦粉に触れていない。店の釜は冷え切り、かつて香ばしい匂いが満ちていた店内には、今やカビ臭い霧が澱んでいる。
灯が訪ねると、サワは薄暗い部屋の隅で、空の揺りかごを揺らしていた。ギィ、ギィと、乾燥した木が擦れる音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
「灯ちゃん……。お願い、今日こそは……あの子の夢を見せて。あの子の声を、一度だけでいいから聞かせてほしいの」
サワの訴えは、切実を通り越して、狂気を含んでいた。彼女は三年前、流行病で幼い息子を亡くした。不眠の呪いが村を覆い始めたのは、ちょうどその頃だった。サワは息子を亡くした悲しみに耐えられず、「こんな記憶、いっそ盗まれてしまえばいい」と夜糸の館に向かって叫んだという。だが、夜糸は彼女の記憶を盗まなかった。代わりに、彼女から眠りだけを奪い去った。忘れたいのに忘れられない、眠りたいのに眠れない。それはサワにとって、終わりのない拷問だった。
「サワさん、それは……死者を夢に描くのは、とても危険なんです」
「いいの、偽物でいい。あの子が笑っているところを、一瞬でいいから思い出させてほしいの。あなたの絵があれば、私はあの子に会える。あの子がこの世にいたことを、もう一度だけ感じられるの」
灯は唇を強く噛んだ。彼女の描く「紙の夢」には、ある厳格なルールがあった。それは「既に失われたものを描いてはいけない」ということだ。死者や、過ぎ去った幸福な時間を描けば、それは「偽物の夢」としての強度を超え、眠る者の精神を異界へと引きずり込んでしまう。それは安らぎではなく、底なしの未練への招待状となるのだ。
しかし、サワの目はあまりにも赤く、その精神は今にも擦り切れそうだった。彼女をここで見捨てれば、彼女は今夜にも夜糸の館へ身を投げてしまうかもしれない。
「……分かりました。でも、約束してください。ほんの数分だけです。深く眠ろうとしてはいけませんよ。夢の淵をなぞるだけです」
灯はスケッチブックを開き、筆を走らせた。彼女が描いたのは、陽だまりの中で小さな靴を履こうとしている子供の足元だった。顔は描かない。声も描かない。ただ、温かな光の気配と、子供特有の柔らかそうな肌の質感だけを描き込んだ。
サワは完成した絵を奪い取るように受け取ると、それを枕の下に敷き、吸い込まれるように横になった。
灯は彼女の寝顔を見守っていたが、不意に、部屋の温度が急激に下がるのを感じた。窓の外の霧が、生き物のようにうねり、部屋の中に侵入してくる。
「サワさん、起きて! 戻ってきて!」
灯が叫んだが、サワの意識は既に遠い場所へ行っていた。彼女の口元には、数年ぶりの安らかな微笑みが浮かんでいる。その瞬間、サワの頭上から、銀色に輝く細い糸がスルスルと伸び上がった。
それは、夜糸の館へと繋がる「記憶の糸」だった。灯はそれを掴もうとしたが、糸は光の粒子となって彼女の指をすり抜けていった。