眠りのない村の夢配達

眠りのない村の夢配達 第11話「第10章:夜会の招待状」

霧が黒い渦となり、村の広場を飲み込もうとしていた。 夜糸の館の尖塔が崩れ落ち、そこから巨大な「忘却の布」が溢れ出した。それは空を覆い尽くすほどの大きさで、村人たちが数世代にわたって切り捨ててきた「痛み」と「罪」の集積体だった。その布には、無数の叫び声や泣き顔が、銀色の糸で刺繍されている。 その布の端を掴み、空中に浮遊しているのは、仮面を脱ぎ捨てた夜糸――もう一人の灯だった。彼女の姿は今や巨大化し、その瞳からは黒い涙が溢れていた。 「無駄だよ、灯。君がいくら叫んだところで、彼らが抱える痛みの深さは変わらない。一度溢れ出した毒は、もう誰にも止められないんだ。この村は、自分たちの重みに耐えきれずに崩

霧が黒い渦となり、村の広場を飲み込もうとしていた。
 夜糸の館の尖塔が崩れ落ち、そこから巨大な「忘却の布」が溢れ出した。それは空を覆い尽くすほどの大きさで、村人たちが数世代にわたって切り捨ててきた「痛み」と「罪」の集積体だった。その布には、無数の叫び声や泣き顔が、銀色の糸で刺繍されている。
 その布の端を掴み、空中に浮遊しているのは、仮面を脱ぎ捨てた夜糸――もう一人の灯だった。彼女の姿は今や巨大化し、その瞳からは黒い涙が溢れていた。
「無駄だよ、灯。君がいくら叫んだところで、彼らが抱える痛みの深さは変わらない。一度溢れ出した毒は、もう誰にも止められないんだ。この村は、自分たちの重みに耐えきれずに崩壊する運命にあるのさ」
 夜糸が布を振りかざすと、そこから黒い雷のような衝撃が走り、広場の石畳を粉々に砕いた。住民たちは恐怖に縮こまり、再び目を逸らそうとする。痛みに耐えきれず、再び忘却の眠りに逃げ込もうとする者もいた。
 だが、灯は逃げなかった。彼女は砕けた石を拾い上げ、夜糸を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、もはや恐怖はなかった。
「止めようとなんて思ってないわ。私は、この痛みをみんなで分かち合う場所を作りたいだけ。隠すから呪いになるの。見せ合えば、それはただの『思い出』になるはずよ」
 灯は、玄造から預かった「赤い実」を高く掲げた。
「みんな、聞いて! この実は、私たちを無理やり起こしておくための道具だった。でも、今は違う。この実の苦さを、私たちがこれまで耐えてきた『生』の証として、誇りを持って受け入れて!」
 灯は赤い実を口に含み、力強く噛み潰した。強烈な苦味と、脳を焼くような刺激が全身を駆け巡る。彼女はその感覚を拒絶せず、むしろ歓迎するように深く息を吸い込んだ。
「今夜、ここで『痛みの夜会』を開きます! 誰にも言えなかったこと、忘れたかったこと、自分を責め続けてきたこと、全部ここに置いていって。私が、私の心の中に全部描き写してあげるから! 一人で持てない重さなら、みんなで持てばいい!」
 灯の叫びに、最初に応えたのは玄造だった。彼は震える足で歩み寄り、灯の隣に立った。
「……私の息子は、飢饉の時に私が殺したも同然だった。彼に食べさせるはずの粥を、私が耐えきれずに食べてしまったのだ。その罪を忘れたくて、私はこの写真を握りしめ、自分を罰し続けてきた。だが、もう隠すのはやめよう」
 玄造が告白した瞬間、空を覆う布の一部が、眩い銀色の光を放って解けていった。
 続いて、サワがふらふらと立ち上がった。彼女の瞳には、まだ微かに光が戻っていないようだったが、その唇は確かに動いていた。
「私は……あの子が死んだ時、どこかでホッとしてしまったの。看病の疲れから解放される、これでやっと休めると……。そんな自分を許せなくて、私は眠ることを捨てた。でも、あの子との思い出は、その汚い気持ちも含めて、私の宝物だったのね……」
 サワの告白と共に、布の別の場所が光り、解けていく。
 続いて、広場の隅で震えていた若い男が口を開いた。彼は村の自警団の一員で、かつて食料を盗もうとした子供を見逃さず、冷酷に罰したことを悔いていた。「俺は正義だと言い聞かせていた。でも本当は、自分が生き残るために誰かを踏みつけたかっただけなんだ!」彼の叫びと共に、布に刻まれた黒い棘のような紋様が消え去った。
 次に、かつて灯に「スープの夢」を求めた長治が立ち上がった。「私は……妻が死んだ時、彼女が隠していたわずかな蓄えを見つけて、悲しむよりも先に『これで食い繋げる』と安堵したのだ。そんな自分が恐ろしくて、私は彼女の顔を思い出すことを拒んでいた……」老人の枯れた声が夜の空気に溶け込み、布に織り込まれた銀色の涙の跡が、柔らかな光へと変わっていった。
 一人、また一人と、住民たちが自分たちの「影」を語り始めた。それは決して美談などではない。卑怯で、身勝手で、目を背けたくなるような人間の本性の断片ばかりだった。だが、不思議なことに、その言葉が広場に満ちるたびに、黒い霧は薄れ、夜の空気はどこか清涼な、懐かしい雨上がりのようなものへと変わっていった。彼らは互いの告白を聞きながら、自分だけが醜いわけではないことを知り、初めて他人の存在を「鏡」ではなく「隣人」として受け入れ始めたのだ。その心の変化が、夜糸の魔力を内側から打ち砕いていった。