明日を冷凍するスーパーマーケット 第6話「第五章:英雄の代償」
翌日の午後七時。冬馬と紗季は、コーポ・サニーの前にいた。 アパートは古びた二階建てで、各部屋の窓からは夕食の準備をする灯りが漏れている。紗季の友人、マイの部屋は二階の角部屋だった。 「どうするの? いきなり『火事になります』なんて言っても信じてもらえないよ」 「僕がガス会社の点検を装って入る。君は外で待っててくれ」 冬馬は用意した作業着を着て、マイの部屋のインターホンを押した。 出てきたのは、疲れ果てた表情の若い女性だった。腕には生後数ヶ月の赤ん坊を抱いている。 「ガス漏れの点検? そんな連絡、なかったと思うけど……」 「近隣で異常が見つかりまして、念のための緊急点検です。すぐ終わりますから」
翌日の午後七時。冬馬と紗季は、コーポ・サニーの前にいた。
アパートは古びた二階建てで、各部屋の窓からは夕食の準備をする灯りが漏れている。紗季の友人、マイの部屋は二階の角部屋だった。
「どうするの? いきなり『火事になります』なんて言っても信じてもらえないよ」
「僕がガス会社の点検を装って入る。君は外で待っててくれ」
冬馬は用意した作業着を着て、マイの部屋のインターホンを押した。
出てきたのは、疲れ果てた表情の若い女性だった。腕には生後数ヶ月の赤ん坊を抱いている。
「ガス漏れの点検? そんな連絡、なかったと思うけど……」
「近隣で異常が見つかりまして、念のための緊急点検です。すぐ終わりますから」
冬馬は強引に中に入った。キッチン、リビング、寝室。どこかに火種があるはずだ。
そして、彼は見つけた。
リビングの隅、テレビ台の裏にある古い電源タップだ。そこには大量の埃が積もり、タコ足配線になったコードが異常な熱を持っていた。今にも火花が散りそうな状態だ。
「これだ……」
冬馬は素早くコンセントを抜き、埃を払い落とした。コードの被覆は熱で溶けかけており、あと数時間放置していれば、間違いなく出火していただろう。
「あの、何かありましたか?」
マイが不安そうに尋ねる。
「……いえ、これで大丈夫です。このタップはもう使わないでください。危ないですから」
冬馬は逃げるように部屋を出た。
外で待っていた紗季が、冬馬の顔を見て安堵の表情を浮かべた。
「終わった?」
「ああ。火種は消したよ」
二人は夜の街を歩きながら、自分たちが成し遂げたことに酔いしれていた。一人の女性と、一つの小さな命を救った。それは何物にも代えがたい充足感だった。
だが、その夜の勤務で、彼らは「代償」の真の意味を知ることになる。
午後十一時。店に出勤した二人は、入り口で立ち尽くした。
店内には、筆舌に尽くしがたい異臭が充満していた。かつての野菜の腐敗臭とはまた違う、酸っぱくて重い、内臓を直接掻き回されるような不快な臭いだ。
静まり返った店内には、いつも聞こえる冷蔵ケースの低いモーター音が完全に消えていた。代わりに聞こえるのは、「ピチャン、ピチャン」と、天井や棚から何かが粘り気を持って滴り落ちる不気味な音だけだった。
「……乳製品コーナーが、嘘でしょ」
紗季が悲鳴に近い声を上げた。冬馬が視線を向けると、そこには地獄のような光景が広がっていた。
牛乳パック、ヨーグルトの容器、バターの包み、チーズの袋。それらすべてが、内側から凄まじい圧力を受けたかのように爆発し、中身が四方八方に飛び散っていたのだ。ケースのガラス扉は内側から白く塗りつぶされ、床一面には凝固してドロドロの塊となった乳製品が、まるで内臓の残骸のように広がっていた。
だが、惨劇はそれだけでは終わらなかった。
パリン、という鋭い音と共に、店の中央にある照明が一つ、火花を散らして割れた。それを合図にしたかのように、次々と蛍光灯が爆発し、鋭利なガラスの破片が雨のように降り注ぐ。
「如月! 佐伯! そこから離れろ!」
事務所から飛び出してきた店長の絶叫と同時に、巨大な陳列棚が一つ、目に見えない巨大な力で押し潰されたかのように、根元からへし折れて倒れてきた。
轟音と共に、大量の缶詰やレトルト食品が床に散乱し、割れた瓶から液体が流れ出す。それは、スーパーマーケットという一つの精密なシステムが、内側から自己崩壊を起こしていく凄惨な光景だった。
「……やりすぎたんだ。因果の天秤が、振り切れてしまった」
店長が、割れたメガネの縁を震える指で押さえながら、力なく呟いた。
「火災という、街の歴史を左右しかねない大きな因果を消した。その反動として放出されたエネルギーが、この店という器を破壊することで、無理やりバランスを取ろうとしているんだ」
冬馬は、足元に広がる白い牛乳の海を呆然と見つめた。その濁った水面には、自分の影が映っていた。
だが、その影の輪郭が、心なしか周囲の闇に溶け込むように薄くなっているように見えた。
ふと気づくと、足の先から感覚が消えていた。痛みも冷たさも感じない。まるで自分の存在そのものが、この世界というキャンバスから消しゴムで消されようとしているかのような、根源的な浮遊感と恐怖。
「僕の……足が、消えかけてる……」
「冬馬くん! しっかりして!」
紗季が冬馬の腕を必死に掴んだ。その爪が食い込む痛みだけが、彼を辛うじてこの現実の世界に繋ぎ止めていた。
損害額はもはや計算するまでもない。この店は、今日で終わりだ。そして、店という「身代わり」を失った因果の嵐は、次には直接的な原因である冬馬へとその牙を剥くだろう。
冬馬は冷酷な真理を悟った。
未熟な正義感によるヒーローごっこは、もう終わりだ。
次にあの冷凍庫に予言が現れた時、自分はたとえ断腸の思いであっても「何もしない」ことを選ばなければならない。
たとえそれが、誰かの命が失われるという、救いようのない結末を意味していたとしても。それが、この店で働く者が背負わねばならない、呪いにも似た責任なのだから。