雨を集める宇宙港

雨を集める宇宙港 第2話「第1章:雲を喰う膜」

宇宙港《スカイ・アンカー》は、一つの都市だった。 赤道直下の大地に根を張る四本の巨大な脚。それが高度数万キロの静止軌道ステーションまで続くエレベーターを支えている。その基部には、数万人の職員とその家族が暮らす居住区、研究施設、そして広大な貯水タンクが広がっている。 カナタが作業を終えて居住区に戻ると、広場にある巨大なホログラムモニターには「本日も安定した集水量を記録」という誇らしげな文字が踊っていた。 「安定、か。地上が干からびれば干からびるほど、ここの水は価値を増すんだからな。皮肉なもんだ」 背後から声をかけてきたのは、ゴンドウだった。油と錆の染み付いた、年季の入った作業着を無造作に着こなし

宇宙港《スカイ・アンカー》は、一つの都市だった。
 赤道直下の大地に根を張る四本の巨大な脚。それが高度数万キロの静止軌道ステーションまで続くエレベーターを支えている。その基部には、数万人の職員とその家族が暮らす居住区、研究施設、そして広大な貯水タンクが広がっている。
 カナタが作業を終えて居住区に戻ると、広場にある巨大なホログラムモニターには「本日も安定した集水量を記録」という誇らしげな文字が踊っていた。
「安定、か。地上が干からびれば干からびるほど、ここの水は価値を増すんだからな。皮肉なもんだ」
 背後から声をかけてきたのは、ゴンドウだった。油と錆の染み付いた、年季の入った作業着を無造作に着こなした大男は、結露した合成水のボトルをカナタに放り投げた。カナタはそれを片手で受け止め、冷たい感触に一瞬だけ安らぎを覚えた。
「ゴンドウさん。さっきのアラーム……ただの負荷変動じゃないですよね?」
「ああ、気づいたか。第ニ集水ユニットの超伝導ベアリングが悲鳴を上げてやがった。公社は広報で『気象変動に伴う集水効率の劇的向上』なんて景気のいいことを言ってるが、現場の俺たちからすりゃ、機械が無理やり空を絞り上げてるようにしか見えねえ。……おい、あの空を見ろ」
 ゴンドウが指差した先、強化ガラスの展望窓の向こうには、正気を疑うような光景が広がっていた。
 赤道直下のこの地域では、本来なら乾季にあたるこの時期、空は透き通るような青であるはずだ。しかし今、宇宙港の頂点――高度五千メートルの捕雨膜を中心に、どす黒い積乱雲が巨大な渦を巻いていた。それはまるで、空に開いた底なしの穴に、地球上のすべての湿気が吸い込まれていくかのようだった。
 捕雨膜が発する微弱だが広大な電磁界が、周囲数百キロメートル、下手をすれば千キロメートル以上先の雲までをも強引に引き寄せている。ナノ繊維の膜が青白く明滅するたびに、雲の渦は密度を増し、地上へと続く光ファイバーの束が神経系のように脈動していた。
「あれじゃ、下流域には雲の欠片も届かねえ。公社は水を燃料に変え、ステーションに送り、莫大な利益を得る。だが、その代償として大地は死ぬ。レンが言ってた通りになっちまったな」
 ゴンドウの声は、重く、苦々しかった。カナタはボトルの水を一口含んだが、その味はどこか無機質で、血の味が混じっているような錯覚に陥った。
「父さんは……」カナタはボトルを強く握りしめた。指の関節が白く浮き出る。「父さんは、この膜を『呼吸させる』と言っていました。吸い込むだけじゃなく、吐き出すこともできるって。自然の循環を邪魔するんじゃなく、助けるための装置なんだって。でも、公社はそれを『非効率だ』と切り捨てた」
「効率、効率、効率だ。公社の連中にとっては、水は命じゃなく、ただの数字なんだよ」
 ゴンドウは吐き捨てるように言い、カナタの肩をポンと叩いた。
「だがな、カナタ。機械は正直だ。無理をさせれば必ず壊れる。そして、その壊れ方を決めるのは、最後にレンチを握ってる俺たち整備士だ。覚えておけよ」
 その言葉の意味を、カナタはまだ半分も理解できていなかった。ただ、頭上で渦巻く黒い雲が、いつか自分たちを飲み込んでしまうのではないかという漠然とした恐怖だけが、胸の奥で静かに広がっていた。
「父さんは……」カナタはボトルを握りしめた。「父さんは、この膜を『呼吸させる』と言っていました。吸い込むだけじゃなく、吐き出すこともできるって。でも、公社はそれを許さなかった」
「レンの野郎は天才だったが、正直すぎた」ゴンドウは遠くを見つめた。「あいつは、宇宙開発が地上の犠牲の上に成り立つことを我慢できなかったんだ。だから、システムに『余剰分を地上へ返す』機能を組み込もうとした。それが公社の逆鱗に触れたんだよ」
 公社にとって、水は商品であり、支配の道具だ。無料で雨を降らせるなど、利益を損なう自殺行為でしかない。
 カナタは自室に戻り、父が残した唯一の遺品であるペンダントを手に取った。古びた金属の殻の中には、特殊な端子を持つメモリスティックが隠されている。父が追放される直前、カナタの首にかけて「いつか、空が泣き止まなくなったらこれを使え」と言い残したものだ。
 その夜、カナタは浅い眠りの中で夢を見た。
 それは一面の鮮やかな緑に覆われた、かつての故郷の村の風景だった。小川には冷たく澄んだ水が絶え間なく流れ、雨上がりの湿った土と草の匂いが鼻をつく。カナタは父と手を繋ぎ、水面に反射する光を追いかけていた。しかし、その幸福な光景は、音を立てて崩れ去る。緑は一瞬にして灰色の砂へと変わり、豊かな川の流れは干からびた血管のような亀裂へと姿を変えた。そして、その亀裂の底で、リアが乾いた喉を必死に押さえながら、声にならない助けを求めて倒れ込む。
 恐怖に突き動かされるようにして飛び起きたカナタの耳に、再びけたたましいアラームが届いた。今度は、先ほどよりも遥かに激しく、宇宙港の巨大な骨組みそのものを底から震わせるような不気味な振動を伴っていた。
 窓の外を見ると、高度五千メートルの空で捕雨膜が、まるで怒れる神の眼のように禍々しい青白色に発光していた。それは、ナノ繊維が許容限界を超えた電荷を帯び、大気中のプラズマを強制的に吸い込んでいる証拠だ。
「まさか……想定よりずっと早い。システムが、自食を始めているのか?」
 カナタは冷や汗を拭い、傍らに置いていた作業着をひったくるように掴むと、荒い息を吐きながら部屋を飛び出した。廊下にはすでに、非常用照明の赤い光が明滅し、破滅の予兆を告げていた。