泣かないロボットの遺言状

泣かないロボットの遺言状 第4話「第三章:実務の壁と死者の囁き」

翌朝、律は事務所の所長である高坂に呼び出された。高坂は慎一郎の元部下であり、律にとっては厳格かつ現実的な上司だ。 「久遠くん、巽健二さんから再三の催促があったぞ。ロボットの初期化と、不動産売却のための書類作成を急げとね。彼はかなり焦っているようだ。聞けば、彼の会社は不渡りを出す寸前らしい」 「所長、まだ調査が終わっていません。モモの中には、慎一郎先生が意図的に残したと思われる『隔離領域』があります。これを無視して進めるのは、慎一郎先生の遺志を無視することになります」 「それがどうした」 高坂は眼鏡を丁寧に拭きながら、冷淡に言った。「我々司法書士の仕事は、確定した事実と法的手続きに基づいて、円滑

翌朝、律は事務所の所長である高坂に呼び出された。高坂は慎一郎の元部下であり、律にとっては厳格かつ現実的な上司だ。
「久遠くん、巽健二さんから再三の催促があったぞ。ロボットの初期化と、不動産売却のための書類作成を急げとね。彼はかなり焦っているようだ。聞けば、彼の会社は不渡りを出す寸前らしい」
「所長、まだ調査が終わっていません。モモの中には、慎一郎先生が意図的に残したと思われる『隔離領域』があります。これを無視して進めるのは、慎一郎先生の遺志を無視することになります」
「それがどうした」
 高坂は眼鏡を丁寧に拭きながら、冷淡に言った。「我々司法書士の仕事は、確定した事実と法的手続きに基づいて、円滑に遺産を分配することだ。ロボットのメモリの中に何があろうと、それが遺言の方式を欠いている以上、法的には存在しないのと同じだ。民法九百六十条を読み返したまえ。遺言は、この法律に定める方式に従わなければ、することができない。例外はないんだ」
「ですが、もし慎一郎先生の真意が、あの公正証書遺言と異なるとしたら? 先生はわざわざモモのプログラムを書き換えてまで、何かを伝えようとしていたんです。それを無視して手続きを進めることは、先生に対する裏切りになりませんか」
「真意だと? 久遠くん、君はまだ青いな。証拠のない真意など、法の世界ではファンタジーだ。いいか、巽健二さんは事業に失敗し、高利の債務を抱えている。あの家が売れなければ、彼は来月にも破産し、娘の花さんも路頭に迷うことになるんだぞ。君の『正義感』という名の自己満足が、結果として生きている家族を地獄に突き落とすことになるんだぞ。君が守るべきは、死者の沈黙ではなく、生者の生活だ」
 律は反論できずに唇を強く噛んだ。高坂の言うことは、プロの実務家として一点の曇りもない正論だ。法は、不確かな「心」や「真意」というノイズを排除することで、社会の秩序と予測可能性を守っている。それが法の限界であり、同時に最大の利点でもある。
 律は自分のデスクに戻り、沈黙を守るモモに向き合った。
「モモ、教えてくれ。君は、健二さんが破産することを望んでいるのか? 君が家を譲らないと言い続けることで、彼はすべてを失うことになるんだぞ。それは君の主人の望みか?」
「いいえ。私は巽家の皆様の福祉を最大化するよう、慎一郎様によって設定されています。健二様の経済的破綻は、私の目的関数に反します。しかし、私の優先順位の最上位には『真実の継承』が置かれています」
「真実の継承……。家を売れば、その真実とやらは失われるのか?」
「……慎一郎様は仰いました。『家を売ることは、魂を売ることだ。一度売った魂は、二度と買い戻せない。法は財産を分けることができるが、罪を分けることはできない』と」
「それは単なる比喩だ。経済的な実利の前では、何の説得力も持たない」
「比喩……。私にはその概念を完全には理解できません。ですが、慎一郎様がその言葉を発した時の生体反応データは、通常の会話時とは明らかに異なっていました。脈拍は百二十を超え、瞳孔は散大し、発汗量は急増していました。それは、深い恐怖、あるいは――取り返しのつかない後悔を示唆しています」
 律はハッとした。慎一郎は、家という不動産資産を惜しんでいたのではない。家を売ることによって、何かが「永遠に消去される」ことを恐れていたのだ。
 律は慎一郎の過去の裁判記録を、事務所の秘密データベースから引き出した。巽慎一郎が担当した数千の事件。その多くは華々しい勝訴で飾られているが、一つだけ、異様な違和感を放つ記録があった。
 十年前、健二が起こしたとされる「投資詐欺事件」。慎一郎は自ら弁護を引き受け、健二を無罪に導いた。だが、その判決が出たわずか一週間後に、妻の澄江が亡くなっている。死因は心不全。しかし、当時の新聞記事の切り抜きには、息子の不祥事に心を痛めた末の衰弱死だという憶測が流れていた。
 律は当時の公判資料を精査した。そこには、健二の無実を証明した「決定的な証拠」が記載されていた。それは、健二が事件当日に別の場所にいたことを示す、家庭用ロボットのログデータだった。
 そう、モモの記録だ。