泣かないロボットの遺言状

泣かないロボットの遺言状 第3話「第二章:隔離領域と法の番人の苦悩」

結局、その日の話し合いは平行線のまま終わった。律は「遺産目録の作成および、ロボット内の資産価値のあるデータの保全、ならびに法的リスクの精査」という名目で、モモを数日間だけ事務所で預かることを提案した。健二は「初期化を遅らせるなよ。来週には業者が来るんだ」と釘を刺しながらも、渋々それを承諾した。 事務所へ戻る自動運転車の中、助手席に固定されたモモは、窓の外を流れる楓市の景色を無感情に見つめていた。高度に発達した都市のネオンが、モモの金属製の肌に反射しては消えていく。 「……モモ、聞こえるか?」 律が静かに問いかけると、モモのセンサーがこちらを向いた。 「はい、律様。音声入力を待機しています。周囲

結局、その日の話し合いは平行線のまま終わった。律は「遺産目録の作成および、ロボット内の資産価値のあるデータの保全、ならびに法的リスクの精査」という名目で、モモを数日間だけ事務所で預かることを提案した。健二は「初期化を遅らせるなよ。来週には業者が来るんだ」と釘を刺しながらも、渋々それを承諾した。
 事務所へ戻る自動運転車の中、助手席に固定されたモモは、窓の外を流れる楓市の景色を無感情に見つめていた。高度に発達した都市のネオンが、モモの金属製の肌に反射しては消えていく。
「……モモ、聞こえるか?」
 律が静かに問いかけると、モモのセンサーがこちらを向いた。
「はい、律様。音声入力を待機しています。周囲の騒音レベルは低く、認識精度は99.8%です。私の存在について、何か法的な懸念がありますか?」
「慎一郎先生は、最後に何を言ったんだ? 応接間で再生した言葉がすべてか? 君は、彼が法を犯してまで守りたかったものを知っているのか?」
「慎一郎様の最後のお言葉は、先ほど再生した通りです。しかし、私の内部ストレージには、通常のファイルシステムからはアクセスできない、多重暗号化された『隔離領域』が存在します。慎一郎様はこれを『法学の墓場』と呼称されていました」
「隔離領域……法学の墓場だと?」
 律はハンドルを握る手に力を込めた。通常の家庭用ロボットに、そんな高度な仕様が設定されることはあり得ない。それは政府の諜報機関や大企業の極秘研究用、あるいは極めて個人的な「決して表に出せない真実」のための特別仕様だ。
「その領域には、何が入っているんだ? アクセス権は誰にある?」
「内容については回答できません。アクセス権は現在、厳重に凍結されています。慎一郎様が設定した特定の論理的条件が満たされた場合にのみ、自動的に開放されるよう設計されています。慎一郎様はこれを『真実の重みに対する試練』と呼称されていました」
「条件とは何だ?」
「……第一条件は『家族の対話が、第三者の立ち会いのもとで成立すること』。第二条件は『巽家の歴史に対する、健二様の誠実な直面』です」
 律は溜息をついた。ロボットは嘘をつかないが、その言葉は時として、どんな難解な判例よりも重く、解きがたい謎を提示する。
 事務所に着くと、律は慎一郎から生前に譲り受けていた古い判例集を棚から取り出した。慎一郎は引退間際、律に「これからは法だけでは救えない人間が増える。その時にこの本を読み返せ。文字の間にある沈黙を読め」と言って、革装の分厚い本を託したのだ。
 ページを捲ると、そこには慎一郎が晩年に書き残していたと思われる手書きのメモが挟まっていた。
『人工知能の遺言能力に関する試論――法と感情のインターフェースにおける矛盾の解消について』
 そこには、次のような衝撃的な一節が記されていた。
『法は、意思無き存在を主体として認めない。しかし、意思とは何か? 脳内の電気信号と、シリコン上の電流に本質的な差異はあるのか。もし、ロボットが人間の最期の願いを理解し、それを守るために自律的な判断を下したならば、それは「代理人」としての地位を付与されるべきではないか。私はここに、AI受託者という新しい概念を提唱する。それは、法が届かない死の深淵において、死者の尊厳を物理的に守るための番人である』
 それは、現行法では認められていない「ロボットによる意思表示」に、ある種の信託法的な地位を与えようとする、極めて急進的かつ危険な内容だった。慎一郎は、自分が守ってきた法という体系そのものを、内側から爆破しようとしていたのだ。その爆薬こそが、モモという存在だった。
「先生、あなたは何を企んでいたんですか……。あなたは法を愛していたのか、それとも憎んでいたのか」
 法曹界の重鎮であり、誰よりも厳格に法を守ってきた男が、自らの死をきっかけに法というシステムの欠陥を突き、そこから真実を漏れ出させようとしていた。
 その夜、律のスマートフォンに花からメッセージが届いた。
『律さん、お願い。モモを助けて。お父さんは、おじいちゃんが死ぬ前に認知症だったんだって言ってるけど、絶対に違うの。おじいちゃんは、モモの中に「おばあちゃん」を隠したんだと思う。おじいちゃんが死ぬ前、ずっとモモに向かっておばあちゃんの名前を呼んで、謝ってたから』
 おばあちゃん――慎一郎の妻、巽澄江。彼女は十年前、健二が多額の負債を抱えて家を飛び出し、世間を騒がせた直後に、病で急逝している。
 律はモモの内部ログの解析を開始した。専門の解析ソフトを走らせると、奇妙な演算波形が見つかった。
 モモの「感情演算ユニット」――本来はユーザーの表情に合わせて適切な相槌を打つためのサブシステム――の数値が、毎日特定の時間帯だけ、処理能力の限界まで跳ね上がっているのだ。ロボットには心がない。だが、そのアルゴリズムは、まるで「耐え難い悲しみ」という巨大な負荷を必死に演算し、システムダウンを防ぐために抑制しているかのような軌跡を描いていた。
 そして、そのピークは常に、午後二時十三分に訪れていた。