泣かないロボットの遺言状

泣かないロボットの遺言状 第2話「第一章:無効な遺言と家族の肖像」

久遠律(くおん・りつ)が巽邸の門を潜ったのは、慎一郎の葬儀から三日が過ぎた、湿り気を帯びた午後のことだった。 二十四歳。司法書士試験に合格してまだ一年の律にとって、この邸宅は単なる仕事先ではなく、ある種の聖地に近い場所だった。かつて大学時代、法律というシステムの無機質な合理性に絶望し、法学の道を捨てようとしていた律に「法は人のためにある。条文の向こう側にいる人間の顔を見ろ。法は冷たいが、それを運用する人間の手は温かくなければならない」と説いたのが、この家の主である巽慎一郎だった。 しかし、今の律の肩書きは「巽慎一郎遺産整理業務の補助者」だ。感傷に浸る暇はない。手に持った黒いブリーフケースには、

久遠律(くおん・りつ)が巽邸の門を潜ったのは、慎一郎の葬儀から三日が過ぎた、湿り気を帯びた午後のことだった。
 二十四歳。司法書士試験に合格してまだ一年の律にとって、この邸宅は単なる仕事先ではなく、ある種の聖地に近い場所だった。かつて大学時代、法律というシステムの無機質な合理性に絶望し、法学の道を捨てようとしていた律に「法は人のためにある。条文の向こう側にいる人間の顔を見ろ。法は冷たいが、それを運用する人間の手は温かくなければならない」と説いたのが、この家の主である巽慎一郎だった。
 しかし、今の律の肩書きは「巽慎一郎遺産整理業務の補助者」だ。感傷に浸る暇はない。手に持った黒いブリーフケースには、慎一郎が遺した膨大な不動産、有価証券のリストと、三年前の公証役場で作成された一通の公正証書遺言の写しが入っている。
「失礼します。久遠司法書士事務所の律です。遺産整理業務の進捗報告に参りました」
 玄関を開けると、線香の香りと共に、ぴりついた緊張感が流れてきた。
 応接間に通されると、そこには慎一郎の長男・健二と、その娘の花が座っていた。健二は高級そうなイタリア製シルクのスーツを着崩し、イライラした様子で最新型の透過型タブレット端末を叩いている。彼の周囲には、焦燥感という名の黒いオーラが漂っていた。一方の花は、中学生らしい幼さを残した顔を伏せ、膝の上で拳を握りしめていた。彼女の瞳は赤く腫れ、幾度も涙を拭った跡がある。
 そして、部屋の隅にはあのロボット――モモが、まるで精巧な彫像のように立っていた。
「ああ、久遠くんか。親父が世話になったな。君の師匠の葬儀は盛大だったが、あとの始末が大変でね。有名人の死というのは、金がかかる」
 健二は顔を上げずに言った。「さっさと手続きを済ませてくれ。この家も、土地も、早く査定に出さないといけないんだ。相続税の支払い期限も迫っているし、俺の会社の資金繰りも限界でね。親父も、無駄な延命よりは資産の有効活用を望んでいたはずだ」
「……お父様のご遺志を確認するのが先決かと存じます。慎一郎先生は三年前、公証役場で厳格な公正証書遺言を作成されています。民法第九百六十九条に基づき、証人二人の立ち会いのもとで作成されたものです。そこには、不動産の処分についても言及があったはずですが、基本的には健二さんに相続させるとあります」
「そんなものはわかっている。だが、問題はこいつだ」
 健二が忌々しげに指差したのは、モモだった。
「こいつが、変なことを言い出したんだ。葬儀の翌日から、親父の声でな。システムエラーか何かだろうが、あまりにリアルで気味が悪い。親族の間でも変な噂が広まり始めている」
 律がモモに視線を向けると、ロボットの光学センサーが反応し、フォーカスを合わせる微細な駆動音がした。
「久遠律様、確認いたします。慎一郎様の追加指示を再生しますか? これは特定認証者が同席している場合にのみ許可される出力です」
「追加指示……?」
 律が頷くと、モモの胸部スピーカーから、聞き慣れた、しかし死の直前の掠れた慎一郎の声が流れた。
『私は、この家を誰にも譲らない。ここにある記憶を、一欠片も外へ持ち出すことは許さない。もし誰かがこの私の法を破ろうとするならば、私はその者を巽家から放逐する。これは契約だ』
 律は息を呑んだ。それは慎一郎の肉声そのものだったが、その内容は彼が知る「徹底した合理主義者」としての慎一郎とは真逆のものだった。法を重んじる彼が、「譲らない」「放逐する」といった情緒的かつ強権的な言葉を使うはずがない。
 健二が立ち上がり、モモの肩を乱暴に小突いた。
「聞いただろ? こんなの、本人の意思なわけがない。親父は死ぬ前まで、この家を処分して事業の足しにしろと言っていたんだ。こいつの回路が狂ったんだよ。律くん、君の仕事として、このロボットの記録を正式に『法的無効』だと証明してくれ。そして、すぐに初期化業者に引き渡すんだ。こいつの存在そのものが、遺産分割協議の妨げになっている」
「……慎一郎先生の声を合成して再生している可能性もありますが、ロボットによる音声記録は、現行法では遺言としての効力を持ちません」
 律は努めて冷静に、職務上の見解を述べた。「民法が定める遺言の方式には、音声によるものは含まれていません。自筆証書遺言の要件も満たしていませんし、公正証書による原本と内容が矛盾する場合、法的には公正証書が優先されます。ですから、健二さん、あなたがこの家を売却することに法的な障害はありません。ロボットの発言は、単なる『機械のノイズ』として処理可能です」
「ならいい。おい、花。そのロボットをこっちへ渡せ。初期化業者に持っていく。親父の変な声が録音されているなんて、資産価値を下げるだけだ。ゴミはゴミ箱へ、機械はスクラップ工場へだ」
「嫌!」
 花がモモの前に立ちはだかった。彼女の小さな体が、怒りと悲しみで激しく震えている。
「モモは壊れてない! おじいちゃんは、本当にこう言いたかったんだよ。お父さんが知らないおじいちゃんの本当の気持ちを、モモが命がけで守ってるだけなの! モモを壊すなら、私も一緒に壊して!」
「バカを言うな。記憶を外に出さないなんて、そんな非合理なことをあの親父が言うはずがないだろう。あの人は効率と法を何よりも重んじていたんだ。お前は子供だからわからないんだ」
 家族の怒声が飛び交う中、律はモモの様子を観察していた。
 モモは、騒ぎ立てる健二を見るわけでもなく、泣きじゃくる花を見るわけでもなかった。ただ、部屋の北側にある窓をじっと見つめている。その視線は、虚空を貫くように鋭く、固定されていた。
 律は腕時計を見た。午後二時十三分。
 なぜ、この時刻なのか。律の胸に、法律家としての冷徹な分析とは別の、人間の業に触れたような予感が走った。