泣かないロボットの遺言状

泣かないロボットの遺言状 第1話「プロローグ:最後の依頼」

その部屋には、死の気配よりも先に、静謐な機械の駆動音が満ちていた。 楓市の北端、古い楠の木が重厚な影を落とす巽邸の書斎。かつて数多の複雑な相続紛争を、法という冷徹かつ精密な刃で鮮やかに裁いてきた老弁護士、巽慎一郎は、今や自らが「相続される側」という受動的な立場になろうとしていた。 彼の枕元に、守護霊のように控えているのは、旧式の家政ロボット《モモ》だ。球体に近い頭部と、柔らかなシリコンで覆われた細い腕。最新型の人工皮膚を持ち、人間と見分けがつかないアンドロイドたちが街のショーウィンドウを飾るこの時代にあって、モモの姿はいかにも「一世代前の機械」然としていた。しかし、その無機質な動作の一つ一つに

その部屋には、死の気配よりも先に、静謐な機械の駆動音が満ちていた。
 楓市の北端、古い楠の木が重厚な影を落とす巽邸の書斎。かつて数多の複雑な相続紛争を、法という冷徹かつ精密な刃で鮮やかに裁いてきた老弁護士、巽慎一郎は、今や自らが「相続される側」という受動的な立場になろうとしていた。
 彼の枕元に、守護霊のように控えているのは、旧式の家政ロボット《モモ》だ。球体に近い頭部と、柔らかなシリコンで覆われた細い腕。最新型の人工皮膚を持ち、人間と見分けがつかないアンドロイドたちが街のショーウィンドウを飾るこの時代にあって、モモの姿はいかにも「一世代前の機械」然としていた。しかし、その無機質な動作の一つ一つには、慎一郎の生活習慣が三十年という歳月をかけて染み付いたような、独特の緩やかさと、どこか優雅な品位があった。
「モモ……」
 慎一郎の掠れた声が、沈黙を破った。モモの光学センサーが淡く青い光を灯す。それは暗い部屋の中で、一つの命の灯火が消えゆくのを静かに、そして克明に記録しようとする青い星のようだった。
「はい、慎一郎様。お加減はいかがですか。バイタルサインを確認しました。心拍数が毎分四十回を下回りました。血圧も低下しています。緊急プロトコルに従い、救急車を要請しますか?」
「加減など、もうどうでもいい。要請は……するな。それは私の尊厳死宣言書に反する行為だ。それより……記録を開始しろ。これは私の『最後の職務』だ」
「承知いたしました。生体ログ、および高精度音声記録モードを起動します。記録媒体の残容量は十分です。周囲のノイズキャンセリングを最大に設定しました」
 慎一郎は震える手で、自分の首筋から下げていた細いプラチナの鎖を手繰り寄せた。その先には、小さな銀の鍵と、モモのメンテナンス用の特殊なドングルが付いている。彼はモモの首元、普段は保護カバーで厳重に隠されている物理スイッチに指をかけた。その指先は、長年万年筆を握り続けてきた名残で、中指の横が硬くタコになっていた。
「いいか、モモ。これから私が言うことは、現行の日本国民法第九百六十条以下の要件を何一つ満たさない。証人二人の立ち会いもなく、自筆でもない。法的には一文の価値もないゴミだ。だが、お前の中にだけは、真実を留めておいてほしい。法というシステムが救いきれないものを、お前の記憶という名の海が救うかもしれない」
「私は記憶装置です。慎一郎様の言葉は、周波数、声紋、感情成分の微細な揺らぎに至るまで、一つ残らずデジタルデータとして保存されます。私の記憶は、劣化することはありません」
「……そうだな。お前は泣くことも、嘘をつくこともできない。プログラムされた論理回路に従ってしか動かない。だからこそ、私はお前にすべてを託せるのだ。人間は、愛する者のために平気で嘘をつく生き物だからな」
 慎一郎はスイッチを『手動上書き禁止・隔離領域確保』のポジションへとスライドさせた。カチリ、という小さな金属音が、沈黙の中に響く。それは、彼が一生をかけて守り続けてきた「法の城壁」の一部を、自らの手で崩し、その向こう側にある混沌とした真実へと手を伸ばした音でもあった。
「健二には……あいつには、まだこの真実は重すぎるかもしれない。あいつはまだ、自分の過ちを金や地位で買い戻せると思っている。だが、花には……あの子の澄んだ瞳には、この真実を受け止める準備ができているはずだ。花が成人した時、あるいは家族が本当の意味でバラバラになりかけた時……その時に、この封印を解け」
 言葉は途切れ、慎一郎の瞳から光が消えていった。モモは動くことなく、主人の心拍が停止し、体温が室温へと同化していく過程を、ただ静かに、そして冷徹なまでに克明に記録し続けた。
 外では、近未来の都市を象徴する磁気浮上式リニアカーの走行音が、遠くの地鳴りのように響いていた。楓市の夜は、死者一人を歴史の彼方へと置き去りにして、効率的かつ冷淡に更けていく。