百年後の市役所

百年後の市役所 第9話「第8章:真夜中の公聴会」

午前三時三十分。凪ヶ浦市役所のロビーは、異様な熱気に包まれていた。 志摩は、作成したばかりの申請書と報告書を、窓口のカウンターに並べた。彼の指はインクで汚れ、額には汗が滲んでいた。 彼の前には、保証人としての佐伯、そしていつの間にか戻ってきた九条課長代理が座っていた。九条は本庁へ行ったのではなかったのか。彼は濡れたレインコートを脱ぎ捨て、厳しい表情で書類を見つめた。 「志摩君、これが君の答えか。本気でこれを出すつもりか」 「はい。住民基本台帳法附則第十二条、および凪ヶ浦市独自の救済条例に基づき、ミナ氏の転入届を受理することを提案します」 志摩の声は震えていなかった。彼は今、かつてないほど自分の

午前三時三十分。凪ヶ浦市役所のロビーは、異様な熱気に包まれていた。
 志摩は、作成したばかりの申請書と報告書を、窓口のカウンターに並べた。彼の指はインクで汚れ、額には汗が滲んでいた。
 彼の前には、保証人としての佐伯、そしていつの間にか戻ってきた九条課長代理が座っていた。九条は本庁へ行ったのではなかったのか。彼は濡れたレインコートを脱ぎ捨て、厳しい表情で書類を見つめた。
「志摩君、これが君の答えか。本気でこれを出すつもりか」
「はい。住民基本台帳法附則第十二条、および凪ヶ浦市独自の救済条例に基づき、ミナ氏の転入届を受理することを提案します」
 志摩の声は震えていなかった。彼は今、かつてないほど自分の仕事に誇りを感じていた。
「彼女は未来の人間ではありません。百年前からこの街に根を張り、制度の不備によって透明化されていた『我が市の市民』です。私たちは、彼女を見失っていただけなんです。記録が途絶えていても、彼女の命の営みはこの街の土壌に溶け込んでいる」
 九条は無言で書類を読み進めた。佐伯は傍らで、古い缶コーヒーを啜りながら、じっとその様子を見守っている。ロビーの時計が、チクタクと非情な音を刻む。一秒ごとに、未来のミナの存在が削り取られていく。
「……論理の飛躍がある」九条がつぶやいた。「この実態調査の裏付けが弱い。彼女が『潜在的に居住し続けていた』という証明はどこにある? 物理的な証拠が足りない」
「これです」
 志摩は、端末の画面を九条に向けた。そこには、ミナが持つペンダントと、市役所の石碑、そして地下の台帳の空白が、一つの線で繋がった解析図が表示されていた。
「記録は途切れていても、物は残っています。そして、何よりミナさん自身が、自分のルーツを証明するために、百年の時を超えてここにアクセスしてきた。この意志こそが、最大の居住証明ではありませんか? 彼女は、自分がここにいると叫んでいるんです」
 九条は眼鏡を外し、疲れたように目を閉じた。彼は自分の父親がかつて果たせなかった夢を、目の前の青年に見ていたのかもしれない。
 そして、ふっと口角を上げた。それは志摩が初めて見る、九条の人間らしい微笑だった。
「……全く、無茶苦茶な理屈だ。こんなもの、明日になれば監査で叩き潰されるぞ。君も私も、クビは免れない」
 九条は受理印を手に取り、その重みを確かめるように握りしめた。
「だが、今この瞬間、この窓口において、彼女を市民と認める権限は我々にある。行政とは、冷たい機械ではなく、人間が人間のために行う営みであるべきだ」
 九条は印鑑を志摩に差し出した。
「志摩君。君が押せ。これは君が始めた戦いだ。君の手で、彼女の居場所を確定させろ」
 その時、突然ロビーの照明が全て消えた。未来のAIによる、最後にして最大の干渉が始まったのだ。建物全体が激しく揺れ、地鳴りのような音が響いた。