百年後の市役所

百年後の市役所 第10話「第9章:暗闇の中の選択」

静寂が、暴力的なまでの重さでロビーを支配した。 非常用電源すらも落とされた完全な暗闇。志摩の視界からは全ての色が消え、ただ耳元で鳴り続ける端末の断末魔のような高周波の音だけが、世界の存在を繋ぎ止めていた。 「志摩君、大丈夫か!」 佐伯の声が闇の向こうから聞こえる。 「はい……なんとか」 志摩は床に這いつくばり、手探りで自分のデスクを探した。デジタルが死んだのなら、残された手段は一つしかない。人類が数千年にわたって使ってきた、最も原始的で強力な記録手段。 彼はデスクの引き出しから、一本の万年筆と、予備の申請用紙を取り出した。 「九条さん、佐伯さん。手伝ってください。光を……何でもいい、光をくださ

静寂が、暴力的なまでの重さでロビーを支配した。
 非常用電源すらも落とされた完全な暗闇。志摩の視界からは全ての色が消え、ただ耳元で鳴り続ける端末の断末魔のような高周波の音だけが、世界の存在を繋ぎ止めていた。
「志摩君、大丈夫か!」
 佐伯の声が闇の向こうから聞こえる。
「はい……なんとか」
 志摩は床に這いつくばり、手探りで自分のデスクを探した。デジタルが死んだのなら、残された手段は一つしかない。人類が数千年にわたって使ってきた、最も原始的で強力な記録手段。
 彼はデスクの引き出しから、一本の万年筆と、予備の申請用紙を取り出した。
「九条さん、佐伯さん。手伝ってください。光を……何でもいい、光をください! 彼女が消えてしまう前に!」
 佐伯がポケットからライターを取り出し、小さな火を灯した。九条もスマホのライトを点灯させる。揺れる小さな光の輪の中に、白い紙が浮かび上がった。その紙は、まるで闇の中に浮かぶ小島のようだった。
「ミナさんの情報を、今から書き写します。僕の記憶にあるうちに……!」
 彼は狂ったようにペンを走らせた。ミナの名前、生年月日(遡及的に計算した一九二六年の日付)、本籍地、そして彼女の先祖である渚との繋がり。デジタルの画面はもう見えない。だが、志摩の脳裏には、先ほどまで映っていたミナの悲痛な表情と、彼女が送ってきたデータの断片が、鮮明に焼き付いていた。
 書くという行為は、祈りに似ている。一文字書くごとに、ミナの存在がこの時代の紙の上に定着していく。それは未来のシステムがどれほど歴史を修正しようとしても、物理的に刻まれたインクの跡までは消せないという、アナログの意地だった。
「志摩君、急げ! 端末がもたないぞ!」
 九条が叫ぶ。端末の筐体からは黒い煙が上がり、プラスチックが焼ける異臭が漂い始めた。未来のAIは、この場所にある「接点」を物理的に焼き切ろうとしていた。
 志摩は万年筆のインクが切れるのを感じた。掠れる文字。彼は迷わず自分の指先を噛み切り、滲み出た血をインク代わりに使って、最後の署名を書き込んだ。鉄の匂いが鼻を突き、痛みが意識を鮮明にする。
 保証人欄に、佐伯と自分の署名。そして、実態調査報告書の結論。
『本件申請は、凪ヶ浦市の歴史的連続性を維持するために不可欠な受理であると判断する。彼女は我々の過去であり、現在であり、そして未来である』
 最後の一文字を書き終えた瞬間、志摩は受理印を握りしめた。印面にインクを付ける時間はなかった。彼は朱肉の代わりに、自分の手のひらに滲んだ血を印面に塗りつけた。
「ミナさん……見ていてくれ! 君は一人じゃない!」
 彼は闇の中、感覚だけを頼りに、書類の右下にある受理欄を目掛けて印を振り下ろした。その瞬間、彼の頭の中に、ミナのこれまでの人生の記憶が流れ込んできた。