百年後の市役所 第13話「第12章:百年後の約束」
窓口の向こう側に立つ女性は、夏の光をその身に纏っているかのように輝いて見えた。 志摩は、彼女の胸元で揺れるペンダントから目を離すことができなかった。それは、昨夜の嵐の中で見た、あの未来の少女ミナが持っていたものと全く同じ、凪ヶ浦の古い市章を象った銀細工だった。 「……記録、ですか?」 志摩は自分の声が上擦るのを抑えながら問いかけた。 「はい。私の曾祖母にあたる方の記録なんです。名前は『ミナ』と言います。彼女はこの市役所の近くで育ったと聞いていて、自分のルーツを大切にしていた人でした。彼女が残した日記に、ある『恩人』のことが書かれていたんです」 女性はバッグから、古びた一冊の手帳を取り出した。そ
窓口の向こう側に立つ女性は、夏の光をその身に纏っているかのように輝いて見えた。
志摩は、彼女の胸元で揺れるペンダントから目を離すことができなかった。それは、昨夜の嵐の中で見た、あの未来の少女ミナが持っていたものと全く同じ、凪ヶ浦の古い市章を象った銀細工だった。
「……記録、ですか?」
志摩は自分の声が上擦るのを抑えながら問いかけた。
「はい。私の曾祖母にあたる方の記録なんです。名前は『ミナ』と言います。彼女はこの市役所の近くで育ったと聞いていて、自分のルーツを大切にしていた人でした。彼女が残した日記に、ある『恩人』のことが書かれていたんです」
女性はバッグから、古びた一冊の手帳を取り出した。それは百年という歳月を感じさせるほど変色していたが、大切に保管されていたことが伺える。
「『暗闇の中で、私に居場所をくれた人がいた。その人は名もなき窓口の職員だったけれど、彼の指先が私の運命を変えてくれた。彼が押した受理印は、私の人生の最初の光だった』……そんな一節があるんです」
志摩は息を呑んだ。ミナは、書き換えられた歴史の中で、幸せな人生を全うしたのだ。そして、その感謝の記憶を、こうして子孫に託した。
九条課長代理が、隣の席からそっと志摩の肩を叩いた。
「志摩君、案内して差し上げなさい。君にしかできない案内だ。これは君が繋いだ縁なのだから」
九条の目は、優しく細められていた。彼は全てを知っており、そして志摩の功績を称えていた。
志摩は立ち上がり、カウンターの横のゲートを開けた。
「こちらへどうぞ。古い資料室にご案内します。あなたの曾祖母が愛した、この街の歴史が眠っています」
二人は静かな廊下を歩いた。窓の外には、かつて見た未来の荒廃した景色ではなく、活気にあふれた凪ヶ浦の街並みが広がっている。
「あなたは、この街が好きですか?」
女性がふと尋ねた。
「はい。以前は、ただの仕事場だと思っていました。でも今は……この街の全ての道や、全ての家が、誰かの大切な居場所なんだと感じています。窓口の一つ一つが、未来へ繋がっているんだと」
志摩は資料室の扉を開け、整然と並ぶ台帳の棚へ彼女を導いた。彼は迷うことなく、昭和六十年度の棚から一冊の台帳を抜き出した。
「これです。あなたの曾祖母、ミナさんの記録です」
ページを開くと、そこには「志摩 渚の養子」として受理されたミナの記録と、その後の彼女の輝かしい人生の軌跡が記されていた。
女性は、その記録を指でなぞりながら、静かに涙を流した。
「ありがとうございます。本当に、彼女はここにいたんですね。私の家族の歴史は、ここから始まったんです」
「ええ。彼女はここにいました。そして、今もあなたの心の中にいます。あなたがここにいることが、彼女の存在の証明です」
志摩は彼女を見つめながら、昨夜のミナの声を思い出していた。「ありがとう、おじいちゃん」。もしかしたら、この女性はミナの孫か、あるいは曾孫なのだろうか。いや、そんなことは重要ではない。重要なのは、一人の職員が下した決断が、百年の時を超えて、こうして目の前の笑顔となって結実したという事実だ。
女性は帰り際、志摩に深々と頭を下げた。
「私、名前は『渚』と言うんです。曾祖母がつけてくれた名前です。私もいつか、誰かの居場所を守れるような人になりたいと思っています」
「渚さん……。素敵な名前ですね。あなたなら、きっとそうなれますよ」
彼女が去った後、志摩は一人、資料室に残った。彼は自分の右手のひらを見た。そこにはもう、血の跡も傷もない。だが、受理印の重みだけは、確かに残っていた。
彼は窓の外の空を見上げた。どこまでも高く、澄み渡った青空。百年後の空も、きっとこうであってほしい。そう願いながら、志摩は再び自分の戦場である窓口へと戻っていった。