百年後の市役所

百年後の市役所 第12話「第11章:書き換えられた朝」

翌朝、志摩はロビーのソファで目を覚ました。 窓からは眩しい朝日が差し込み、夜の間の出来事が全て夢だったのではないかと思わせるほど、平和な光景が広がっていた。小鳥のさえずりが聞こえ、市役所のロビーには爽やかな風が吹き抜けていた。 志摩は慌てて自分のデスクを見た。そこには、昨夜彼が血を吐く思いで書いた書類はなかった。代わりに、一冊の古い戸籍台帳が置かれていた。 彼は恐る恐るその台帳を開いた。昭和六十年度の記録。かつて空白だったページには、切り取られた形跡など微塵もなく、美しい文字でこう記されていた。 『氏名:志摩 渚の養子として受理。本籍地:凪ヶ浦市中央区一番地。特記事項:本市の歴史において重要な

翌朝、志摩はロビーのソファで目を覚ました。
 窓からは眩しい朝日が差し込み、夜の間の出来事が全て夢だったのではないかと思わせるほど、平和な光景が広がっていた。小鳥のさえずりが聞こえ、市役所のロビーには爽やかな風が吹き抜けていた。
 志摩は慌てて自分のデスクを見た。そこには、昨夜彼が血を吐く思いで書いた書類はなかった。代わりに、一冊の古い戸籍台帳が置かれていた。
 彼は恐る恐るその台帳を開いた。昭和六十年度の記録。かつて空白だったページには、切り取られた形跡など微塵もなく、美しい文字でこう記されていた。
『氏名:志摩 渚の養子として受理。本籍地:凪ヶ浦市中央区一番地。特記事項:本市の歴史において重要な役割を果たす者として、永久保存とする』
 そしてその隣のページには、ミナの先祖たちが代々この街で生きてきた記録が、整然と並んでいた。歴史が、根本から書き換えられていたのだ。志摩渚が救った子供は、その後この街の発展に大きく寄与し、志摩家は凪ヶ浦の名家となっていた。
 志摩は市役所の外に出た。空気が、昨日までとは違っていた。排気ガスの匂いが薄れ、潮風の中に花の香りが混じっている。街路樹の緑はより深く、人々の表情もどこか明るく見えた。
 ロビーの石碑に目を向けると、欠けていたはずの文字が完璧に修復されていた。
『凪ヶ浦市民憲章:私たちは、過去を敬い、現在を愛し、未来(あした)を共に創る。一人を見捨てない窓口が、百年後の光となる』
 佐伯老人が、花壇で見たこともない青い花に水をやっていた。その花は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「おはよう、志摩君。よく眠れたかね。昨夜は随分とうなされていたようだが」
「佐伯さん……この花は?」
「これか? 今朝、突然咲いていてね。なんだか懐かしい匂いがするんだ。百年前に絶滅したはずの品種に似ている気がするが……まあ、気のせいだろうな。この街には、不思議なことがよく起きる」
 佐伯は悪戯っぽく笑った。
 志摩は窓口の席に戻った。九条課長代理が、いつも通り無表情にコーヒーを飲んでいる。だが、彼の机の上には、志摩が昨日見たあのUSBメモリが、誇らしげに置かれていた。
「志摩君、仕事だ。今日は転入届が多いぞ。新しい街の住人たちを、温かく迎え入れようじゃないか」
「はい」
 志摩は深く頷き、端末を立ち上げた。最新式の、何の不具合もない業務用PCだ。彼はキーボードを叩き始めた。Enterキーの感触は驚くほど軽やかだった。