記憶を売らない写真館 第3話「第2章:時計の刻む音」
その日の夕方、商店街の西端で細々と営業を続けている時計店の店主、辰巳爺が、震える手で一枚の写真を持って現れた。彼は伊織の祖父の代からの友人で、伊織にとっては数少ない、本音で話せる大人だった。 「伊織くん……ちょっと、これを見てくれんか」 差し出されたのは、全体がセピア色に変色し、角が少し丸まった古い写真だった。若かりし頃の辰巳が、今よりもずっと豊かな髪をなびかせ、その隣で恥ずかしそうに、しかし幸せそうに微笑む女性――数年前に病で亡くなった彼の妻、志津子が写っている。二人の背景には、かつて商店街で行われていた大規模な夏祭りの飾りが写り込んでいた。 「メモリーリンクの奴らが来てな、この写真の時の記
その日の夕方、商店街の西端で細々と営業を続けている時計店の店主、辰巳爺が、震える手で一枚の写真を持って現れた。彼は伊織の祖父の代からの友人で、伊織にとっては数少ない、本音で話せる大人だった。
「伊織くん……ちょっと、これを見てくれんか」
差し出されたのは、全体がセピア色に変色し、角が少し丸まった古い写真だった。若かりし頃の辰巳が、今よりもずっと豊かな髪をなびかせ、その隣で恥ずかしそうに、しかし幸せそうに微笑む女性――数年前に病で亡くなった彼の妻、志津子が写っている。二人の背景には、かつて商店街で行われていた大規模な夏祭りの飾りが写り込んでいた。
「メモリーリンクの奴らが来てな、この写真の時の記憶を売れと言ってきたんだ。そうすれば、今の狭いアパートを出て、介護付きの高級マンションに入る頭金も、今後の治療費もすべて出すと。志津子との思い出は心の中にあるし、写真はこうして残るんだから、記憶そのものは売っても構わないじゃないかと……そう言われてな」
辰巳の声は掠れていた。彼は、自分の記憶を売るという行為が、妻への裏切りになるのではないかと怯えているようだった。
伊織は黙って写真を受け取り、カウンターの下でそっと指先を写真の表面に添えた。
瞬間、耳の奥に三十年前の祭りの喧騒が爆発した。
――志津子、こっちを見て。ほら、笑って。
――もう、恥ずかしいわよ、あなた。こんな人混みの中で。
辰巳の若々しい声と、志津子の鈴を転がすような笑い声。しかし、その幸福な音の背後で、伊織は妙な異音を捉えた。
――コン、コン、コン、コン……。
何か硬い金属を、一定のリズムで叩き続けるような、低く重い打撃音だ。祭りの太鼓の音とは明らかに質が違う。それは、商店街の地面の下、深い土の底から響いてくるような、不気味で執拗な音だった。
「伊織くん、何か……何か聞こえるかい? 志津子は、なんて言っとる?」
辰巳が縋るような目で尋ねる。伊織は喉の奥まで出かかった「地下の音」の正体を飲み込み、無理に口角を上げた。
「奥さんは……とても楽しそうでしたよ。辰巳さんのことを、本当に大切に思っていたんだなって、声を聞けば分かります」
「そうか……そうか。よかった……」
辰巳は写真を胸に抱き、何度も頷きながら店を去っていった。
彼が帰った後、伊織は店の奥から商店街の古い地図と、再開発の設計図のコピーを取り出した。あの打撃音が聞こえた場所を特定しようと指で辿る。それは、現在のアーケードの中央付近、かつて街のシンボルだった巨大な噴水広場があった場所だ。
なぜ、夫婦の幸せな思い出の写真の中に、あんな建設現場のような、あるいは封印を叩き壊すような音が混じっているのか。伊織は、祖父が残した日記や、地域の歴史を記した古い会報を漁り始めた。そこには、十五年前の再開発計画が突如として白紙になった経緯と、その時期に商店街の一部で極秘に行われていた「精神生理学的な実験」についての、断片的で不可解な記述があった。