記憶を売らない写真館

記憶を売らない写真館 第14話「エピローグ」

その日の夜、伊織は一人で店に残り、引き出しの奥の二重底から、あの「母の写真」を取り出した。 15年間、何度触れても、絶望的な雨音しか聞こえなかった写真。 伊織は深呼吸をし、静寂の中でそっと指を置いた。 すると、今度はもう、あの激しい雨の音は聞こえなかった。代わりに、初夏の穏やかな風の音と、誰かが遠くでハミングする、優しい鼻歌が聞こえてきた。 そして、写真の中の母が、ゆっくりと、慈しむように唇を動かした。 ――「いってらっしゃい、伊織。あなたの行く道が、美しい音で満たされますように」 それは、あの日母が最後に残し、雨音の向こう側に封印していた、本当の、たった一つの言葉だった。 伊織は溢れ出す涙を

その日の夜、伊織は一人で店に残り、引き出しの奥の二重底から、あの「母の写真」を取り出した。
 15年間、何度触れても、絶望的な雨音しか聞こえなかった写真。
 伊織は深呼吸をし、静寂の中でそっと指を置いた。
 すると、今度はもう、あの激しい雨の音は聞こえなかった。代わりに、初夏の穏やかな風の音と、誰かが遠くでハミングする、優しい鼻歌が聞こえてきた。
 そして、写真の中の母が、ゆっくりと、慈しむように唇を動かした。
 ――「いってらっしゃい、伊織。あなたの行く道が、美しい音で満たされますように」
 それは、あの日母が最後に残し、雨音の向こう側に封印していた、本当の、たった一つの言葉だった。
 伊織は溢れ出す涙を拭い、満面の笑顔で答えた。
「……行ってきます、母さん。僕、この街で、たくさんのいい音を撮るよ」
 彼はその母の写真の隣に、今日撮ったばかりの、赤ん坊と夫婦の写真を並べた。
 過去と未来が、一枚の作業机の上で、静かに、しかし力強く重なり合う。
 坂上写真館の窓からは、再生を始めた街の無数の灯りが見えた。
 どこからか、遠くで風鈴の音がチリンと鳴った。
 それは、明日という新しい日が、もうすぐそこまで来ていることを告げる、希望に満ちた、始まりの音だった。それは誰に教えられたわけでもない、伊織自身がこの街で見つけた、新しい命の鼓動そのものだった。彼はその音を胸に刻み、明日もまた、誰かの大切な一瞬を切り取るためにカメラを構えるだろう。過去を慈しみながら、未来を祝福する。その当たり前で、しかし何よりも困難な営みを、彼はこの写真館で続けていく。街の灯りは一つ一つ消えていくが、伊織の心の中には、決して消えることのない温かな光と、母の優しい声が残り続けていた。それは彼にとって、どんな高価な機材よりも、どんな魔法のような能力よりも大切な、生きるための糧だった。窓の外では、夜の帳が静かに降り、商店街は深い眠りについていたが、そこには確かに、明日への希望が息づいていた。伊織はそっと目を閉じ、世界が奏でる夜の旋律に耳を傾けた。それは、どこまでも穏やかで、美しい調べだった。

伊織は暗室の電気を消し、店の方へと歩き出した。彼の足取りは軽く、心は晴れやかだった。これからは、聞こえてくる音すべてが、彼のシャッターを切る動機になるだろう。街のざわめきも、人々の話し声も、すべてが愛おしい旋律として彼の耳に届く。坂上写真館は、これからもこの街の歴史を、その「音」と共に刻み続けていくのだ。

(完)