灰色砂漠の病院船 第6話「第五章:失われたカルテの謎」
沈没の恐怖が船内を支配する中、ソラは損傷した記録室の整理を命じられた。リナはカイルと共にエンジンルームの復旧に向かい、医務室には一時的にソラだけが残された。 散乱した書類の中に、一冊の古びたファイルが紛れ込んでいた。それは電子化される前の、紙のカルテだった。表紙には大きく「極秘」のスタンプが押され、患者名の欄には『患者番号000』とだけ記されている。 ソラは震える手でそのファイルを開いた。 そこには、十九年前の日付が記されていた。ちょうどソラが生まれた年だ。 『患者:ソラ(生後三ヶ月)。症状:先天性石英病。脳幹部に巨大な結晶を確認。生存確率5%未満』 ソラは息を呑んだ。自分もまた、石英病だった
沈没の恐怖が船内を支配する中、ソラは損傷した記録室の整理を命じられた。リナはカイルと共にエンジンルームの復旧に向かい、医務室には一時的にソラだけが残された。
散乱した書類の中に、一冊の古びたファイルが紛れ込んでいた。それは電子化される前の、紙のカルテだった。表紙には大きく「極秘」のスタンプが押され、患者名の欄には『患者番号000』とだけ記されている。
ソラは震える手でそのファイルを開いた。
そこには、十九年前の日付が記されていた。ちょうどソラが生まれた年だ。
『患者:ソラ(生後三ヶ月)。症状:先天性石英病。脳幹部に巨大な結晶を確認。生存確率5%未満』
ソラは息を呑んだ。自分もまた、石英病だったのか? だが、自分には結晶の跡もなければ、記憶に欠落があるとも思えない。
読み進めると、そこには信じられない記述があった。
『治療法:親族による直接記憶触媒法を適用。執刀医:リナ。触媒提供者:リナ。捧げられた記憶――「娘の成長に関するすべての未来の予測」および「娘との触れ合いに関する過去の全記憶」』
ソラの視界が滲んだ。
リナが自分に対して冷たい理由。感情を見せず、事務的に接してきた理由。それは彼女が性格的に冷淡だからではなく、ソラを救うための代償として、「ソラを愛していたという記憶」そのものを失ってしまったからだったのだ。
リナは、娘の命を救うために、母親としての自分自身を殺した。
ファイルにはリナの手書きのメモが添えられていた。
『ソラは助かった。だが、私の腕の中にいるこの子は、もはや私の娘ではない。私は彼女を「救うべき患者」としてしか見ることができない。……これで良かったのだ。命さえあれば、彼女はいつか、私ではない誰かと新しい記憶を作れるのだから』
ソラは古びたカルテを胸に抱きしめ、冷たい床に膝をついた。喉の奥から込み上げる慟哭を、必死に押し殺す。涙がカルテの紙面を濡らし、リナの冷徹な署名が滲んでいく。
母が時折見せていた、あの空虚な視線。食事の時、訓練の時、そしてソラが救命士の試験に合格した時でさえ、リナの瞳の奥には常に深い霧がかかっていた。ソラはそれを、母の性格ゆえの無関心だと思い込み、自分を愛してくれない母を密かに恨んだこともあった。
だが、真実はあまりにも残酷で、そしてあまりにも慈愛に満ちていた。
リナは、目の前にいる愛娘を「知らない誰か」として見続けなければならない地獄のような日々を、十九年間も耐え抜いてきたのだ。娘が笑いかけても、その笑顔に付随する思い出がない。娘が泣いていても、その涙を拭ってやった記憶がない。それでもリナは、ソラを医療者として厳しく育て上げた。それが、記憶を失った自分に残された、唯一の「母親としての責任」だと信じて。
「……お母さん。ごめんなさい、何も知らなくて」
震える唇から漏れた言葉は、赤い非常灯の中に溶けて消えた。
だが、ソラの心の中で、冷え切っていた何かが激しく燃え上がり始めた。悲しみは、今や純粋な決意へと昇華されていた。母が自分の記憶をすべて焼き払ってまで繋ぎ止めてくれたこの命。それを、ただ生き長らえさせるためだけに使うのは、母への冒涜だ。
エリオを救う。だが、それは母が選ばざるを得なかった「略奪」という名の救済ではない。記憶という魂の形を守り抜き、なおかつ肉体の死を退ける。そんな、医療の極致とも言える奇跡を、私は起こしてみせる。
ソラは力強く立ち上がり、涙を拭った。医務室のベッドで、今や結晶に飲み込まれようとしているエリオのもとへ歩み寄る。
「エリオさん、聞こえますか? あなたの見たあの花を、私にも見せてください。一緒に、あなたの花を守りに行きましょう。……この灰の世界を、終わらせるために」
エリオの意識は深い混濁の中にあったが、ソラの声が届いたのか、石英化した指先がわずかに痙攣した。それは、死の淵からの微かな、しかし確かな応答だった。
外では砂嵐の咆哮が一段と激しさを増し、船体は灰の圧力で悲鳴を上げている。だが、ソラの瞳には、母から受け継ぎ、自らの意志で燃え上がらせた「医療者の炎」が、暗闇を切り裂くほど力強く灯っていた。もう、迷いはない。彼女は、この惑星で最も困難なオペに挑む覚悟を決めたのだ。