灰色砂漠の病院船

灰色砂漠の病院船 第5話「第四章:大砂嵐の咆哮」

翌日、ナディール号の平穏は終わりを告げた。 観測ドローンが、北西から巨大な「壁」が接近しているのを捉えたのだ。それは通常の砂嵐ではない。アッシュ・テラにおいて数年に一度発生する、大規模な電磁砂嵐――通称「大咆哮(グレート・ハウリング)」だった。 「全乗組員、衝撃に備えろ! 気密隔壁閉鎖! ホバー出力を最大に上げろ!」 ブリッジからカイルの怒号が響き渡る。ナディール号の巨体が、見えない巨大な手に押しつぶされるかのように軋み始めた。ソラは荒い息を吐きながら、医務室へと続く傾いた廊下を必死に駆け抜けた。壁に設置された手すりを掴まなければ、立っていることさえ困難なほどの振動だ。 医務室に飛び込むと、エ

翌日、ナディール号の平穏は終わりを告げた。
 観測ドローンが、北西から巨大な「壁」が接近しているのを捉えたのだ。それは通常の砂嵐ではない。アッシュ・テラにおいて数年に一度発生する、大規模な電磁砂嵐――通称「大咆哮(グレート・ハウリング)」だった。
「全乗組員、衝撃に備えろ! 気密隔壁閉鎖! ホバー出力を最大に上げろ!」
 ブリッジからカイルの怒号が響き渡る。ナディール号の巨体が、見えない巨大な手に押しつぶされるかのように軋み始めた。ソラは荒い息を吐きながら、医務室へと続く傾いた廊下を必死に駆け抜けた。壁に設置された手すりを掴まなければ、立っていることさえ困難なほどの振動だ。
 医務室に飛び込むと、エリオのベッドを固定するマグネットロックが悲鳴を上げていた。
「エリオさん、しっかり捕まって! すぐに固定を二重にします!」
 ソラは予備の固定ベルトをエリオの体に回した。だが、エリオ自身は迫り来る死の予感に怯える様子もなく、ただ虚ろな目で天井を見つめていた。彼の首筋から顎にかけて、鋭利な石英の結晶が皮膚を内側から押し広げ、青白い光を放っている。その光は、彼の命の灯火が削り取られている証だった。
「……聞こえるか、ソラ。灰が歌っている。何万もの、忘れ去られた声が……」
「歌? 何を言っているんですか、今は安静にしてください! 脳への侵食が進んでしまう!」
 ソラの叫びをかき消すように、凄まじい衝撃がナディール号を襲った。
 ドォォォン、という腹に響くような衝撃音と共に、船体が左舷側に大きく傾いた。棚から医療器具が雪崩のように崩れ落ち、ガラスの砕ける音が響く。窓の外は、もはや灰色ですらなかった。視界を埋め尽くすのは、猛烈な速度で渦巻く漆黒の火山灰と、摩擦によって発生する青白い電光だけだ。セラミック装甲が灰の粒に削られる音は、まるで巨大なヤスリで船体を研磨しているかのような、耳を劈く高周波の悲鳴となって船内に充満した。
「エンジン出力、急速に低下! 第三、第四エンジンに灰が吸い込まれました! フィルターが限界です、オーバーヒートします!」
 カイルの悲鳴のような報告がインターホンから漏れる。船内のメイン照明が激しく明滅し、やがて力尽きたように消灯した。代わって灯った赤い非常灯が、医務室の中を血のような色に染め上げた。この赤い光の下では、エリオの首筋の石英が、より一層不気味に、そして美しく輝いて見えた。それは、死神が奏でる旋律のようだった。
「ソラ! 予備電源を医務室に集中させて! 生命維持装置を止めるな!」
 リナの指示が飛ぶ。ソラは必死に操作パネルを叩いたが、装置の数値は無情にも下がり続けていた。
 エリオの容態が急変した。彼の口から、激しい咳と共に小さな石英の欠片が吐き出される。
「あ……あ……」
 エリオの瞳から光が消えかかる。脳内の記憶が、砂嵐の電磁波と共鳴し、物理的な限界を超えて剥離し始めているのだ。
「リナ先生、エリオさんが! 結晶剥離が止まりません!」
 リナが駆けつけ、エリオの瞳孔を確認する。
「ダメね……これ以上の猶予はない。触媒を準備して。強制的にオペを行うわ」
「でも、彼は拒否していました! 本人の同意がないのに……!」
「死なせるよりはマシよ! ソラ、触媒用のメモリーバンクを持ってきなさい!」
 ソラは立ち尽くした。リナの言うことは、医療者としての義務かもしれない。だが、エリオが守ろうとした「青い花」の記憶を、本人の意志を無視して消し去ることが、本当に「救う」ということなのだろうか。
 その時、船体を一段と大きな衝撃が襲った。船底で爆発音が響き、ナディール号は大きく左に傾斜したまま停止した。ホバーエンジンが完全に沈黙したのだ。
 静寂が訪れた。だがそれは、死の静寂だった。船は灰の海の中に埋まり始め、外部からの圧力で船壁が歪み始めている。