灰色砂漠の病院船

灰色砂漠の病院船 第3話「第二章:忘却を望む男」

数日後、ナディール号は再び灰の海を航行していた。 レーダーが微弱な救難信号を捉えたのは、二度目の食事を終えた直後だった。灰の丘の陰で、小型の探査艇が横転している。ソラと操縦士のカイルは、防護服に身を包んで灰の砂漠へと降り立った。 「ひどいな。砂嵐に直接叩かれたみたいだ」 カイルがハッチをこじ開けると、中には一人の青年が倒れていた。年齢は二十代半ば、手にはボロボロになったスケッチブックを握りしめている。 「生きてる! カイル、運ぶのを手伝って!」 青年の名はエリオといった。彼は船内の隔離室に運ばれたが、意識を取り戻すなり、近づこうとしたソラを激しく拒絶した。 「触るな……! 俺に構うなと言ってい

数日後、ナディール号は再び灰の海を航行していた。
 レーダーが微弱な救難信号を捉えたのは、二度目の食事を終えた直後だった。灰の丘の陰で、小型の探査艇が横転している。ソラと操縦士のカイルは、防護服に身を包んで灰の砂漠へと降り立った。
「ひどいな。砂嵐に直接叩かれたみたいだ」
 カイルがハッチをこじ開けると、中には一人の青年が倒れていた。年齢は二十代半ば、手にはボロボロになったスケッチブックを握りしめている。
「生きてる! カイル、運ぶのを手伝って!」
 青年の名はエリオといった。彼は船内の隔離室に運ばれたが、意識を取り戻すなり、近づこうとしたソラを激しく拒絶した。
「触るな……! 俺に構うなと言っているんだ!」
 エリオの首筋には、すでに小さな石英の突起が現れていた。石英病の初期症状だ。今すぐに治療を始めなければ、数日以内に記憶の剥離が始まるだろう。
「エリオさん、落ち着いてください。私たちは病院船のスタッフです。あなたの病気は治せます」
 ソラが努めて穏やかに話しかけるが、エリオの瞳に宿る拒絶の色は消えなかった。
「治す? あの残酷な儀式のことか? 誰かの記憶を奪って、自分の穴を埋める……そんなことが『治療』だと本気で思っているのか!」
 ソラは言葉に詰まった。エリオの言葉は、彼女が日頃抱いている疑問そのものだったからだ。
「俺は植物学者だ。この灰の海で、かつてこの星に咲いていた花の種を探していた。……そして、見つけたんだ。たった一つだけ、灰の中で芽吹こうとしている命を」
 エリオは震える手でスケッチブックを開いた。そこには、灰色の地面から力強く伸びる、小さな青い花の絵が描かれていた。
「この花を見つけた時の驚き、その香りの記憶……それを失うくらいなら、俺は俺のままで死にたい。石になって、灰の中に消える方がマシだ」
 彼は治療を拒否し、死を選ぶという。
 ナディール号の規則では、本人の明確な意思表示がある場合、強制的な治療は行えないことになっている。だが、リナは違った。
「ソラ、彼の説得を続けなさい。猶予は四十八時間。それを過ぎれば、彼の脳は物理的に崩壊を始めるわ」
「でも、彼は記憶を失いたくないと言っています。無理に救うことが、本当に彼の尊厳を守ることになるんでしょうか」
 ソラの問いに、リナは冷ややかに答えた。
「尊厳? 死者に尊厳などないわ。生きてさえいれば、新しい記憶を作ることはできる。だが、死ねばすべてが終わりよ。救命士なら、感情ではなくバイタルデータを見なさい」
 リナの言葉は正論だった。だが、ソラの心にはエリオの描いた青い花が焼き付いて離れなかった。灰色の世界で、たった一人で奇跡を見つけた男。その奇跡を忘れて生きることは、彼にとって死よりも辛いことなのではないか。
 ソラはエリオの病室に通い詰めた。彼は食事も摂らず、ただ窓の外の灰色を見つめていた。
「エリオさん、教えてください。その花は、どこにあったんですか?」
 ソラの問いに、エリオは最初無視を決め込んでいたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「……北の果て、旧文明の観測基地の跡地だ。そこにはまだ、わずかに地熱が残っている場所がある。灰の下に、数百年もの間、眠り続けていた種が、たまたま降った酸性雨で目を覚ましたんだ」
 彼の語る言葉は熱を帯びていた。それは単なるデータの集積ではなく、彼という人間を形作る魂の叫びだった。
 その夜、ソラは船内の図書室で、アッシュ・テラの古い植物図鑑をめくっていた。エリオの描いた花に似たものを探すためだ。だが、彼女の指が止まったのは、植物のページではなく、船の古い航海日誌の隅に書かれた手書きのメモだった。
『記憶の結晶は、奪うものではない。それは、惑星が私たちに託した種火なのだ』
 その筆跡は、どこか母リナのものに似ているようで、決定的に違っていた。
 ソラは、ナディール号という船が隠している、より深い「灰の真実」に近づきつつあることを、まだ知る由もなかった。