八月だけ逆さまの団地 第9話「第8章:神隠しの正体」
再び地下空間へ降りた三人を待っていたのは、地獄のような光景だった。 真鍮の球体は赤黒く脈動し、周囲の壁からは粘着質のある「影」のようなものが染み出していた。その影の中には、衣服の断片や、子供の靴、古びた眼鏡などが埋もれている。 「……お兄ちゃん?」 沙希が、壁から染み出した黒い影の中に埋もれた、色褪せた青い野球帽を見つけて駆け寄った。それは三年前、八月の終わりの日に彼女の兄が被っていたものと全く同じだった。 「沙希、近寄っちゃダメだ! それは罠だ!」 晴人が叫んだが、一歩遅かった。壁のヒビから無数の黒い触手が伸び、沙希の足首と腰を絡め取った。 「いやだ! 離して! お兄ちゃん、助けて!」 沙希
再び地下空間へ降りた三人を待っていたのは、地獄のような光景だった。
真鍮の球体は赤黒く脈動し、周囲の壁からは粘着質のある「影」のようなものが染み出していた。その影の中には、衣服の断片や、子供の靴、古びた眼鏡などが埋もれている。
「……お兄ちゃん?」
沙希が、壁から染み出した黒い影の中に埋もれた、色褪せた青い野球帽を見つけて駆け寄った。それは三年前、八月の終わりの日に彼女の兄が被っていたものと全く同じだった。
「沙希、近寄っちゃダメだ! それは罠だ!」
晴人が叫んだが、一歩遅かった。壁のヒビから無数の黒い触手が伸び、沙希の足首と腰を絡め取った。
「いやだ! 離して! お兄ちゃん、助けて!」
沙希の体が、コンクリートの壁の中へとズルズルと引き込まれていく。晴人と誠司は必死に彼女の両腕を掴み、力任せに引き戻そうとしたが、影の力はまるで巨大な吸引機のように圧倒的だった。
影の奥底から、幾重にも重なった人々の声が響いてくる。
『行かないで』『ここにいて』『独りにしないで』『終わらせたくない』『ずっと一緒にいよう』
それは、これまで神隠しに遭った人々の絶望の残響であり、同時に、この団地という場所に依存しきってしまった住人たちの、剥き出しの孤独の叫びだった。
「これが神隠しの正体か……。消えたんじゃない。この場所が持つ、あまりにも強すぎる『愛着』という名の毒に飲み込まれたんだ」
誠司が歯を食いしばりながら、苦渋に満ちた声で言った。
晴人は懐から祖父の万年筆を掴み出した。
「沙希を返せ! この場所はもう、役割を終えたんだ! これ以上、誰も縛り付けちゃいけない!」
晴人が万年筆を球体の中心にある小さな穴に突き立てようとしたその時、地下空間の空気が凍りついた。影が集まり、一人の老人の姿を形成した。それは晴人が写真でしか見たことのない、若かりし日の祖父・善蔵の姿そのものだった。
『終わらせてはならない、晴人よ』
祖父の影が、慈しむような、しかし底知れぬ寒気を伴う声で語りかけてくる。
『外の世界を見てみるがいい。人々は隣人の名前さえ知らず、冷たい鉄の箱の中で独り死んでいく。ここなら、死者も生者も、逆さまの空の下で永遠に一つになれるのだ。それが私の、この団地に込めた唯一の救済だった』
晴人の手が、わずかに止まった。沙希を掴む影の力が弱まり、彼女はうっとりとした表情で壁の奥を見つめていた。そこには、光り輝く草原の中で兄が手招きしているような、甘美な幻影が見えているのかもしれなかった。
「……違うよ、おじいちゃん。それは救済なんかじゃない」
晴人は涙を流しながら、しかしはっきりとした口調で言った。
「繋がっているのは、重力のせいじゃない。僕たちが、自分の意志で誰かを想い、手を繋ぐからなんだ。逆さまにならなくても、僕は父さんと会えた。沙希と笑い合えた。強制された絆なんて、本当の繋がりじゃないんだ!」
晴人は万年筆の先を自分の手のひらに突き立て、溢れ出した血をインク代わりにして、球体の冷たい表面に大きな文字を書き殴った。
書いたのは、祖父の手帳の最初の一ページに、かつての善蔵自身が記していたはずの言葉だ。
『さようなら、愛しき鯨ヶ丘』
その瞬間、万年筆が太陽のような眩い光を放ち、真鍮の球体に稲妻のような亀裂が走った。
祖父の影が、満足げな、どこか寂しげな微笑を浮かべて霧散していく。黒い影の触手が消え去り、沙希の体が晴人の腕の中に崩れ落ちた。
しかし、装置の停止は、団地を支えていた超常的な骨組みの崩壊をも意味していた。地下空間の天井から巨大なコンクリートの塊が降り注ぎ、地鳴りが団地全体を激しく揺さぶった。
「逃げろ! 早く地上へ! この場所が完全に閉じる前に!」
誠司の声に弾かれるようにして、三人は崩落する地下通路を必死に駆け上がった。背後では、五十年の孤独と未練を溜め込んだ心臓が、最後の、そして最も力強い鼓動を打とうとしていた。それは場所の死であり、同時に新しい生命の産声のようにも聞こえた。