八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第10話「第9章:最後の日没へのカウントダウン」

八月三十一日。夏休みの最後の一日が、鯨ヶ丘団地にとっての審判の日となった。 朝から空は不気味なほどに赤く染まり、雲は渦を巻いて団地の上空に停滞していた。地下の「心臓」を止めるための第一段階は完了したが、それは同時に、団地を支えていた超常的な均衡を破壊することを意味していた。 五階以上の重力反転は、もはや午後六時を待たずして始まっていた。しかも、その強さは通常の数倍に達し、建物の基礎が軋む音が街中に響き渡っている。 「晴人、これを見てくれ」 管理事務所に避難していた誠司が、窓の外を指差した。 団地の十棟の建物が、わずかに地面から浮き上がっていた。基礎の下にある土が剥き出しになり、巨大な根っこを引

八月三十一日。夏休みの最後の一日が、鯨ヶ丘団地にとっての審判の日となった。
 朝から空は不気味なほどに赤く染まり、雲は渦を巻いて団地の上空に停滞していた。地下の「心臓」を止めるための第一段階は完了したが、それは同時に、団地を支えていた超常的な均衡を破壊することを意味していた。
 五階以上の重力反転は、もはや午後六時を待たずして始まっていた。しかも、その強さは通常の数倍に達し、建物の基礎が軋む音が街中に響き渡っている。
「晴人、これを見てくれ」
 管理事務所に避難していた誠司が、窓の外を指差した。
 団地の十棟の建物が、わずかに地面から浮き上がっていた。基礎の下にある土が剥き出しになり、巨大な根っこを引き抜かれる巨木のような様相を呈している。
「装置が停止に向かう反動で、蓄積された『浮力』が一気に放出されているんだ。このままじゃ日没と共に、団地ごと空へ飛んでいってしまうぞ」
 誠司の予測は絶望的だった。空へ飛んでいくということは、重力の反転境界を越えて、成層圏まで「落下」し続けることを意味する。住人たちに逃げ場はない。
「……みんなに伝えなきゃ」
 晴人は管理事務所の放送用マイクを掴んだ。手が震えていたが、沙希がその上から自分の手を重ねてくれた。
「大丈夫、晴人くんならできるよ」
 晴人は大きく息を吸い、スイッチを入れた。
『鯨ヶ丘団地の住人のみなさん、聞こえますか。工藤善蔵の孫の、晴人です』
 団地中に設置された古いスピーカーから、晴人の声が響き渡る。
『今、この団地はとても悲しんでいます。僕たちがここを去るのを、おじいちゃんが作った装置が止めようとしているからです。でも、このままではみんな、空に消えてしまいます』
 晴人は窓の外を見た。天井に張り付いたまま、恐怖に怯えて窓の外を眺める住人たちの姿が見える。
『お願いです。思い出の品を一つだけ手に持って、あとは全部捨ててください。この場所への未練を、物理的に軽くするんです。そうすれば、重力は元に戻ります』
 無謀な提案だった。長年住み慣れた家財道具を捨てろというのだ。しかし、晴人の声には不思議な説得力があった。
『僕たちは、場所がなくても繋がっていられます。逆さまの世界で助け合ったことを忘れないなら、新しい場所でもきっと大丈夫です。不自由な重力の中で、誰かのためにロープを投げたその手の感覚を、どうか信じてください。さあ、日没までに、皆さんの心の中にある「さよなら」を形にして投げてください! 物を捨てるんじゃない、執着を捨てるんです!』
 晴人の叫びは、団地の隅々にまで届いた。
 放送を終えた晴人は、激しく上下に揺れる廊下を這うようにして進んだ。コンクリートの壁には亀裂が走り、そこから眩い光の粒子が漏れ出している。父・誠司と沙希が、晴人の両脇を支えるようにして走り出した。
 彼らが向かうのは、最も重力が不安定になり、空間の歪みが臨界点に達している八階、父の部屋だった。そこが、団地全体の精神的な「重心」になっていたのだ。
 背後では、巨大なクジラが悶えるような音が、何度も何度も響き渡っていた。基礎から引き抜かれた団地は、もはや地上の建造物ではなく、空を目指す巨大な箱舟へと変貌しつつあった。
 日没まで、あとわずか数分。世界の境界線が、最も薄くなる時間が迫っていた。