八月だけ逆さまの団地 第7話「第6章:反転する絆」
八月十五日の午後六時。その日の反転は、これまでとは明らかに異なっていた。 チャイムの音が歪み、空気が震えるような低周波が団地全体を包み込む。晴人は沙希と共に六階の廊下にいたが、重力の切り替わりがスムーズではなかった。 「きゃっ……!」 沙希が悲鳴を上げた。通常なら天井へと吸い寄せられるはずの体が、中空で停止し、激しく上下に揺さぶられている。重力のベクトルが定まらず、世界が激しくシェイクされているかのようだった。 「沙希、ロープを掴め!」 晴人は必死に手を伸ばしたが、彼自身の体も不安定に浮き沈みし、思うように動けない。 その時、頭上の「床」――本来の物理法則では足元にあるはずの場所――から、猛烈
八月十五日の午後六時。その日の反転は、これまでとは明らかに異なっていた。
チャイムの音が歪み、空気が震えるような低周波が団地全体を包み込む。晴人は沙希と共に六階の廊下にいたが、重力の切り替わりがスムーズではなかった。
「きゃっ……!」
沙希が悲鳴を上げた。通常なら天井へと吸い寄せられるはずの体が、中空で停止し、激しく上下に揺さぶられている。重力のベクトルが定まらず、世界が激しくシェイクされているかのようだった。
「沙希、ロープを掴め!」
晴人は必死に手を伸ばしたが、彼自身の体も不安定に浮き沈みし、思うように動けない。
その時、頭上の「床」――本来の物理法則では足元にあるはずの場所――から、猛烈な勢いで何かが降ってきた。いや、正確には「登って」きたのだ。
「晴人、沙希ちゃん! 動くな!」
父・誠司だった。彼は腰に何本もの登山用ロープを巻き付け、本来の床にある手すりに体を固定しながら、二人のもとへ身を乗り出していた。
「父さん!」
「重力の中心核が不安定になっている。このままじゃ『空』に放り出されるぞ!」
誠司が投げたロープが、生き物のように空を切って沙希の胴体に巻き付いた。誠司は渾身の力で彼女を引き寄せ、本来の床側へと固定する。
しかし、その反動で晴人の体が大きく弾かれた。
晴人の視界から、団地の廊下が遠ざかっていく。彼は窓の外、オレンジ色の空へと吸い込まれそうになった。五階以上の境界線を越えて、本来の空へと「落下」してしまう。
「晴人!」
沙希の叫び声が遠く聞こえる。
晴人は目を閉じた。死を覚悟したその瞬間、力強い手が彼の右首筋と腕を掴んだ。
「……馬鹿野郎、勝手に終わらせるなんて言うな」
父の声だった。誠司は自分の体を半分以上窓の外に乗り出し、晴人を支えていた。父の顔は苦痛に歪み、腕の筋肉がはち切れんばかりに隆起している。
晴人は父の目を見た。そこには、長年彼を縛り付けていた孤独や諦めではなく、息子を絶対に離さないという強い意志が宿っていた。
沙希も反対側から晴人の足を掴み、三人で一つの鎖のようになった。
数分後、激しい重力の揺らぎが収まり、世界は「安定した逆さま」へと戻った。
三人は六階の天井に折り重なるようにして倒れ込んだ。荒い呼吸だけが静かな廊下に響く。
「……助かったんだな」
晴人が呟くと、沙希がわっと泣き出した。晴人は彼女の肩を抱き、そして隣で横たわる父の手を握った。
父の手は、建築士のそれらしく硬く、そして驚くほど温かかった。
「父さん、ありがとう」
「……仕事をしただけだ。建物を守るのが建築士の役目だからな」
誠司は照れ隠しのように顔を背けたが、その手は晴人の手を握り返していた。