八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第6話「第5章:孤独の重力」

翌日、団地の集会所で再開発に関する最終説明会が開かれた。 集会所は一階にあるため、重力は正常だ。しかし、そこに集まった住民たちの空気は、逆さまの世界よりもずっと歪んでいた。 「今さら立ち退けと言われても困る! 私たちはここ以外に住む場所なんてないんだ!」 一人の老人が叫ぶと、周囲から賛成の怒号が飛んだ。 市の担当者は困り果てた顔で書類を読み上げているが、住民たちの耳には届いていない。 晴人は会場の隅で、その様子をじっと見ていた。沙希も隣で不安そうに指を弄んでいる。 「みんな、怖がってるんだね」 沙希が小さく呟いた。 「逆さまになるのが怖いんじゃなくて、逆さまにならなくなるのが怖いんだ」 晴人は

翌日、団地の集会所で再開発に関する最終説明会が開かれた。
 集会所は一階にあるため、重力は正常だ。しかし、そこに集まった住民たちの空気は、逆さまの世界よりもずっと歪んでいた。
「今さら立ち退けと言われても困る! 私たちはここ以外に住む場所なんてないんだ!」
 一人の老人が叫ぶと、周囲から賛成の怒号が飛んだ。
 市の担当者は困り果てた顔で書類を読み上げているが、住民たちの耳には届いていない。
 晴人は会場の隅で、その様子をじっと見ていた。沙希も隣で不安そうに指を弄んでいる。
「みんな、怖がってるんだね」
 沙希が小さく呟いた。
「逆さまになるのが怖いんじゃなくて、逆さまにならなくなるのが怖いんだ」
 晴人はその言葉の意味を噛み締めた。
 逆さまの世界では、住民たちは否応なしに繋がっていた。天井を歩くためにロープを貸し借りし、窓越しに声を掛け合い、誰かが「落下」しそうになれば手を差し伸べる。そこには、現代の都市生活が失ってしまった、泥臭くも切実な連帯があった。
 もし重力反転がなくなれば、彼らはただの「孤独な老人」に戻ってしまう。バリアフリーの整った新しいマンションの個室で、誰とも関わらずに死を待つだけの存在に。
「装置は、その恐怖を吸い上げてるんだ」
 晴人は確信した。祖父・善蔵が作った装置は、善意から生まれたものだった。けれど、それが人々の「孤独への恐怖」と結びついたとき、場所そのものが意志を持つ怪物へと変貌してしまったのだ。
 説明会が紛糾する中、晴人は壇上に歩み寄った。マイクの前に立つ彼の姿は、集まった大人たちに比べればあまりにも小さく、頼りなかった。しかし、その瞳に宿る光は、誰よりも強く、そして静かだった。
「みんな、聞いてください!」
 中学生の突然の叫びに、会場の怒号が止み、重苦しい沈黙が広がった。
「この団地は、僕たちを離さないつもりです。それは、僕たちがこの場所を『終わらせる』のが怖いと思っているからです。再開発で新しい場所へ行くのが不安で、今の不自由な、でも繋がりのある生活にしがみつこうとしている。その『未練』が、地下にある装置を暴走させているんです。このままじゃ、八月末にまた誰かが消えてしまう! それも、一人じゃ済まないかもしれない!」
 住民たちの顔に、隠しようのない動揺が走った。「神隠し」という言葉は、彼らにとって単なる噂ではなく、明日は我が身かもしれないという切実な恐怖だったのだ。
「僕の祖父、工藤善蔵はこの団地を作りました。彼はみんなが孤独にならないように、重力を曲げてまで絆を作ろうとした。でも、それはもう、僕たちを縛る呪いになっています。だから、僕が責任を持って終わらせます。この場所での思い出を、未来へ進むための勇気に変えるために!」
 晴人の言葉が、会場の空気を一変させた。怒鳴り散らしていた老人たちが、まるで魔法が解けたかのように静まり返り、隣り合う者同士で顔を見合わせた。
 会場の入り口で、父・誠司が目を見開いていた。それは、父がこの数年間、たった一人で背負い込み、そして挫折し続けてきた重圧を、息子が真っ向から受け止めた瞬間だった。場所を愛するあまり、その死を看取ることができなかった建築士の敗北を、次世代の意志が救い上げようとしていた。
 外では、八月十五日の午後六時を告げるチャイムが鳴り響こうとしていた。
 空は血のような赤色に染まり、団地全体が巨大な楽器のように震え始めた。夏休みの折り返し地点で、かつてない規模の重力の嵐が、鯨ヶ丘を飲み込もうとしていた。