八月だけ逆さまの団地 第5話「第4章:見えない十一棟目」
父の部屋を後にした晴人と沙希は、団地の中央広場へと向かった。 時刻は午後七時を回り、夕闇が濃くなっていた。逆さまの世界では、街灯の光は空(本来の床)に向かって伸び、足元には奇妙な影が踊っている。 「晴人くんのパパ、思ってたよりずっと必死だったね」 沙希がロープを揺らしながら言った。 「必死すぎて、周りが見えてないんだよ。昔からそうだった」 晴人は祖父の手帳を広げた。そこには、先ほど父の部屋で見た図面とは異なる、もう一つの図面が隠されていた。 「沙希、これを見て。設計図には十棟しかないはずだけど、ここ……中央広場の地下に、もう一つ構造物がある」 二人は広場の中心にある、古びた給水塔を見上げた。
父の部屋を後にした晴人と沙希は、団地の中央広場へと向かった。
時刻は午後七時を回り、夕闇が濃くなっていた。逆さまの世界では、街灯の光は空(本来の床)に向かって伸び、足元には奇妙な影が踊っている。
「晴人くんのパパ、思ってたよりずっと必死だったね」
沙希がロープを揺らしながら言った。
「必死すぎて、周りが見えてないんだよ。昔からそうだった」
晴人は祖父の手帳を広げた。そこには、先ほど父の部屋で見た図面とは異なる、もう一つの図面が隠されていた。
「沙希、これを見て。設計図には十棟しかないはずだけど、ここ……中央広場の地下に、もう一つ構造物がある」
二人は広場の中心にある、古びた給水塔を見上げた。
逆さまの重力下では、給水塔は空に向かって突き出した杭のように見える。しかし、その影は地面(今の足元)に落ちるのではなく、奇妙な屈折を描いて地下へと吸い込まれているように見えた。
「影が……地下へ伸びてる?」
晴人は給水塔の根元に駆け寄った。そこには、雑草に覆われた錆びたハッチがあった。
力を込めてハッチを引き開けると、湿った土の匂いと共に、冷たい空気が吹き上がってきた。
「ここが……十一棟目?」
二人は懐中電灯を手に、地下への梯子を降りた。
地下空間は、想像以上に広大だった。コンクリートの壁には、団地全体の配管が集約されており、その中心には巨大な真鍮製の球体が鎮座していた。
球体からは、微かな振動が伝わってくる。ドクン、ドクン、という、まるで生き物の鼓動のような音が。
「これ、何……?」
沙希が怯えたように晴人の腕を掴んだ。
「たぶん、これが団地の『心臓』だ。おじいちゃんが作った、重力を制御する装置……」
晴人が球体に近づこうとしたその時、背後でカチリと音がした。
振り返ると、そこにはいつの間にか父・誠司が立っていた。彼は地下の暗闇の中で、悲しげな目をしていた。
「そこに入ってはいけない、晴人。それは、住人たちの『未練』を燃料にして動いているんだ」
「未練?」
「この団地を去りたくない、ここでの生活を終わらせたくないという強い思いだ。再開発が決まってから、そのエネルギーが暴走し始めている。装置は団地を守ろうとして、より強力な重力を生み出し、住人を自分の中に取り込もうとしているんだ」
それが「神隠し」の正体だった。団地という巨大なシステムが、自らの存続のために、住人を「部品」として吸収し始めているのだ。