八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第4話「第3章:不在の父と青い設計図」

八階への道のりは、晴人にとって未知の登山のようなものだった。 本来なら「登る」はずの階段を、重力に引かれるまま「降りて」いく。手すりを握る手が汗ばみ、足元がおぼつかない。沙希はそんな晴人を気遣うように、時折振り返っては「ゆっくりでいいよ」と声をかけてくれた。 八階の廊下に辿り着くと、そこは他の階よりもさらに静まり返っていた。空室が多いのか、それとも住人たちが音を立てるのを恐れているのか。 八〇四号室。そこが父の住処だった。 ドアは頭上にあった。沙希が慣れた手つきで壁のロープを伝い、ドアノブに手をかける。 「工藤さーん、お客さんですよ!」 返事はない。しかし、鍵はかかっていなかった。沙希がドアを

八階への道のりは、晴人にとって未知の登山のようなものだった。
 本来なら「登る」はずの階段を、重力に引かれるまま「降りて」いく。手すりを握る手が汗ばみ、足元がおぼつかない。沙希はそんな晴人を気遣うように、時折振り返っては「ゆっくりでいいよ」と声をかけてくれた。
 八階の廊下に辿り着くと、そこは他の階よりもさらに静まり返っていた。空室が多いのか、それとも住人たちが音を立てるのを恐れているのか。
 八〇四号室。そこが父の住処だった。
 ドアは頭上にあった。沙希が慣れた手つきで壁のロープを伝い、ドアノブに手をかける。
「工藤さーん、お客さんですよ!」
 返事はない。しかし、鍵はかかっていなかった。沙希がドアを開けると、そこから「逆さまの部屋」の光景が広がった。
 晴人は沙希に引き上げられるようにして、部屋の「天井」へと足を踏み入れた。
 部屋の中は、凄まじい惨状だった。
 本来の床――今の頭上――には、埃を被ったテレビやテーブルが固定されたまま放置されている。しかし、今の足元である天井には、無数の紙が敷き詰められていた。それはすべて、青焼きの設計図や、手書きの計算式が書かれたメモ用紙だった。
「父さん……?」
 晴人が声を出すと、部屋の奥からガサゴソと音がした。
 積み上げられた設計図の山の向こうから、一人の男が顔を出した。無精髭を生やし、目は充血している。かつて晴人が知っていた、清潔感のある建築士の面影はどこにもなかった。
「……晴人か?」
 父・誠司は、驚いた風でもなく、ただ焦点の定まらない目で息子を見つめた。
「……晴人か。大きくなったな。だが、どうしてここへ来た。ここはもうすぐ、地図から消える場所だ。お前のような未来のある子供が、わざわざ逆さまになってまで来るべき場所じゃない」
「夏休みの宿題だよ。おじいちゃんが遺したこの団地のことを、ちゃんと自分の目で見ておきたかったんだ」
 晴人は努めて冷静に、震える声を隠して言った。父は力なく笑い、足元の設計図の一枚を拾い上げた。その紙は、何度も折り畳まれたせいか、折り目が白く擦り切れていた。
「善蔵さんの設計は、建築としては完璧だった。だが、思想としてはあまりにも純粋すぎたんだよ。彼は建物という冷たいコンクリートに『心』を与えようとした。住人たちが互いに無関心にならず、誰にも看取られずに消えていく孤独死なんてものが絶対に起きないような、そんな理想の共同体を、物理的な法則を歪めてまで強制する仕組みをね」
 誠司は、部屋の隅にある剥き出しの配電盤を指差した。そこには、通常の建築ではありえない、神経細胞のような複雑な回路が組み込まれていた。
「それが、この八月の重力反転だというのか?」
「そうだ。八月は古来より、死者と生者が交流する特別な月だ。善蔵さんはその時期だけ、住人たちの意識の壁を取り払い、互いの存在を強制的に認識させるために重力を反転させた。逆さまになれば、床の下にいた誰かの頭上が自分の足元になり、嫌でも声を掛け合い、手を取り合わなければ生きていけなくなるからな」
 父の言葉は狂気じみていたが、晴人が持っている祖父の手帳に記された『相互扶助の磁場』という言葉と、恐ろしいほどに合致していた。
「でも、それはもう善意じゃないよ。今はただの恐ろしい怪異だ。神隠しまで起きて、みんな怯えてるじゃないか!」
 晴人の叫びに、誠司は深く頭を垂れた。
「わかっている。だから私は、ここ数年ずっとこの部屋でその答えを探していた。だが、設計図の肝心な部分が足りないんだ……。この巨大な執着を終わらせるための『鍵』が、どこにも見当たらない。善蔵さんは、いつかこの団地が寿命を迎える時のことを考えていたはずなのに。私は……建築士として、この場所を安らかに眠らせてやることさえできないのか」
 父の背中は、晴人が記憶していたよりもずっと小さく、そして絶望に震えていた。彼はこの数年間、たった一人でこの逆さまの部屋に閉じこもり、終わらせ方の分からない物語の続きを、血の滲むような思いで書き直そうとしていたのだ。その孤独な戦いに、晴人は胸が締め付けられるような痛みを感じた。