八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第3話「第2章:天井の生活者たち」

「大丈夫? 吐き気とかしない?」 少女は屈託のない笑顔で覗き込んできた。晴人と同じくらい、中学生だろうか。日焼けした肌と、意志の強そうな大きな瞳が印象的だった。 「あ……ああ、大丈夫だ。ただ、少し目が回って」 晴人は立ち上がり、周囲を見渡した。 足元にあるのは、本来の建築では「天井」だったはずの平らなコンクリートだ。そこには等間隔で照明器具が設置されているが、今はその横を避けるようにして、古いカーペットが敷き詰められている。 逆に頭上を見上げると、そこには本来の「床」があった。ドアの敷居があり、郵便受けがあり、新聞受けがある。それらはすべて、空に向かってぶら下がっているように見える。 「私は水

「大丈夫? 吐き気とかしない?」
 少女は屈託のない笑顔で覗き込んできた。晴人と同じくらい、中学生だろうか。日焼けした肌と、意志の強そうな大きな瞳が印象的だった。
「あ……ああ、大丈夫だ。ただ、少し目が回って」
 晴人は立ち上がり、周囲を見渡した。
 足元にあるのは、本来の建築では「天井」だったはずの平らなコンクリートだ。そこには等間隔で照明器具が設置されているが、今はその横を避けるようにして、古いカーペットが敷き詰められている。
 逆に頭上を見上げると、そこには本来の「床」があった。ドアの敷居があり、郵便受けがあり、新聞受けがある。それらはすべて、空に向かってぶら下がっているように見える。
「私は水瀬沙希。六階に住んでるの。君は? 見ない顔だね」
「工藤、晴人……。麓のマンションから来た」
「へえ、下の世界の人なんだ。珍しいね、わざわざ八月にここに来るなんて」
 沙希は「天井」の廊下を歩き出した。彼女の足取りは驚くほど安定している。よく見ると、壁には頑丈なボルトで固定されたナイロンロープが張り巡らされており、住民たちはそれを手すり代わりに使っているようだった。
「見てよ、これが私たちの『八月の日常』」
 沙希が指差した先では、開け放たれたドア(頭上の床にある)から、ロープを使ってするすると降りてくる老人がいた。彼は背中に背負ったカゴに洗濯物を入れ、今の足元である「天井」に設置された物干し竿に、慣れた手つきでシャツを干していく。
「家具は全部、床と天井の両方に固定してあるんだ。八月が終わればまた元に戻るからね。いちいち動かすのは大変だけど、もう五十年もやってるからみんな慣れっこだよ。ほら、見て」
 沙希が指差した部屋の窓越しに、一人の老婆が見えた。彼女は本来の天井――今の床――に置かれた低いテーブルで、茶を啜っていた。頭上(本来の床)には、重厚な仏壇が逆さまのままボルトで固定されており、位牌や線香立てが空に向かってぶら下がっている。
 晴人はその光景に、言葉を失った。
 そこには、単なる怪異への恐怖を超えた、生活という名の執念があった。人々は重力が反転するたびに家具をひっくり返し、ロープを張り、自分たちの居場所を力ずくで繋ぎ止めてきたのだ。
 頭上の本来の床には、かつての生活の残骸――重力で落ちることのない重いピアノや、備え付けのクローゼット――が、逆さまのまま沈黙を守っている。それはまるで、住人たちがかつて送っていた「正常な日々」の抜け殻のようにも見えた。
「不便じゃないの?」
「不便だよ。でもね、こうして天井を歩いていると、下の階の人の頭が見えるでしょ? 普段は天井越しにしか気配を感じないけど、八月だけは『ああ、今日も元気に生きてるな』って分かるんだ。それが、この団地のいいところなんだよ」
 沙希の言葉には、この異常な状況を受け入れた者だけが持つ、奇妙な明るさが宿っていた。晴人は自分の足元のコンクリートをじっと見つめた。そこには、長年住人たちが天井を歩き続けたことによってついたと思われる、微かな靴跡の擦れがあった。
「でも、どうしてこんなことに……」
「さあ? おじいちゃんたちは、この団地が建ったときからだって言ってるけど。でもね、晴人くん。最近、ちょっと様子がおかしいんだ」
 沙希の表情がわずかに曇った。
「重力が、前より強くなってる気がするの。それに……消える人が増えてる」
「消える人?」
「八月の神隠し。聞いたことない? 八月三十一日の日没までに、下に戻れなかった人が一人、いなくなっちゃうの。去年は、私の隣の部屋に住んでたおじいちゃんがいなくなった」
 晴人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。祖父の手帳に書かれていた『孤独を繋ぎ止めるための装置』という言葉が、脳裏をよぎる。
「……僕は、父さんに会いに来たんだ。八階の、工藤誠司に」
 沙希の目が大きく見開かれた。
「工藤さんの息子さんなの? あの、ずっと部屋に閉じこもってる変な建築士さんの……」
 父の評判は、ここでもあまり良くないらしい。
 晴人は複雑な思いを抱えながら、沙希と共にさらに上階へと続く階段――今や、空へと降りていくような感覚の階段――へと向かった。