八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第2話「第1章:五階の境界線」

夏休みの宿題という名目は、便利な免罪符だった。 「団地の歴史について調べるんだ。再開発でなくなる前に」 母は渋ったが、晴人が「おじいちゃんの仕事を知りたい」と言うと、それ以上は何も言わなかった。祖父・善蔵はこの団地の設計に関わった建築士だった。母にとっても、自分の父親の功績を息子が誇りに思うことは、悪い気はしなかったのだろう。 八月三日。晴人はバックパックに祖父の手帳と水筒を詰め込み、鯨ヶ丘団地へと向かう坂道を登った。 築五十年の建物は、近くで見るといっそう痛々しかった。コンクリートの壁には血管のようなひび割れが走り、錆びた手すりが西日に照らされている。 一号棟の入り口を通り抜ける。一階から四

夏休みの宿題という名目は、便利な免罪符だった。
「団地の歴史について調べるんだ。再開発でなくなる前に」
 母は渋ったが、晴人が「おじいちゃんの仕事を知りたい」と言うと、それ以上は何も言わなかった。祖父・善蔵はこの団地の設計に関わった建築士だった。母にとっても、自分の父親の功績を息子が誇りに思うことは、悪い気はしなかったのだろう。
 八月三日。晴人はバックパックに祖父の手帳と水筒を詰め込み、鯨ヶ丘団地へと向かう坂道を登った。
 築五十年の建物は、近くで見るといっそう痛々しかった。コンクリートの壁には血管のようなひび割れが走り、錆びた手すりが西日に照らされている。
 一号棟の入り口を通り抜ける。一階から四階までは、何の変哲もない古い公営住宅だ。廊下には使い古された自転車や植木鉢が並び、どこかの部屋からカレーの匂いが漂ってくる。
 階段を一段ずつ登る。四階の踊り場を過ぎ、五階へと続く階段に足を踏み入れた瞬間だった。
「……っ!」
 耳の奥で、気圧が変わったときのような小さな音がした。
 体が、ふっと軽くなる。胃のあたりが浮き上がるような感覚。それはエレベーターが急降下する瞬間に似ていたが、もっと持続的で、静かな力だった。
 手すりを掴む力が思わず強くなる。晴人は慎重に、五階の廊下へと足を踏み出した。
 そこは、物理法則の墓場だった。
 晴人が足を踏み出した先にあるのは、本来なら「天井」と呼ばれていたはずの平らなコンクリートだ。そこには等間隔で蛍光灯が並んでいるが、今はその横を避けるようにして、色褪せた玄関マットや使い古されたサンダルが置かれている。
 一方で、本来の「床」は晴人の頭上にあった。そこには住人たちが長年使い込んできたであろう木製のドアがあり、郵便受けにはチラシが逆さまに突き刺さっている。壁に設置された消火器は、本来の重力に従って空へと落ちようとする力と、固定具の摩擦との間で、悲鳴を上げるようにして静止していた。
 視界に入るすべてが、脳の認識を拒絶する。平衡感覚が狂い、どちらが上でどちらが下なのか、その定義自体が溶けていくような眩暈に襲われた。手すりを掴む指先が白くなるほど力を込めなければ、自分もまた「空」という名の底なし沼へ吸い込まれてしまいそうだった。
「危ないよ、慣れてない人は」
 頭上から声がした。
 晴人が顔を上げると、そこには一人の少女がいた。
 彼女は、晴人にとっての「天井」に立っていた。白いワンピースの裾が、重力に従って上(晴人にとっての頭上)へと翻っている。彼女は天井の廊下を、まるで平地を歩くように軽やかに駆け抜けてきた。
「え……」
「五階の境界線で立ち止まるのが一番危ないんだから。ほら、こっちに来て」
 彼女は「天井」から身を乗り出し、晴人の手首を掴んだ。
 その瞬間、晴人の体は完全に重力の支配を失った。視界がぐるりと回転する。地面だと思っていたものが頭上に去り、天井だと思っていたコンクリートが足元に迫る。
 ドサッ、と晴人は両足で着地した。
 そこは、逆さまの世界の「床」だった。