八月だけ逆さまの団地 第1話「プロローグ:空に落ちる影」
八月が来ると、鯨ヶ丘団地は「逆さま」になる。 それはこの地域に住む者なら誰もが知っている、しかし誰もが口にするのを避ける奇妙な慣習のような現象だった。 午後六時。防災行政無線のチャイムが、どこか物悲しいメロディで夕暮れの訪れを告げる。オレンジ色の陽光が、山肌に張り付くように建てられた古い団地の窓ガラスを一枚ずつ焼いていく。その瞬間、世界のルールが書き換わるのだ。 五階以上の住人たちは、床を蹴るのではない。彼らは天井に向かって「落ちる」のだ。 ドサリ、という鈍い音が、あちこちの棟から響く。それは人が床に倒れる音ではなく、かつての天井――今は彼らにとっての新しい床――に足をつく音だ。 工藤晴人は、
八月が来ると、鯨ヶ丘団地は「逆さま」になる。
それはこの地域に住む者なら誰もが知っている、しかし誰もが口にするのを避ける奇妙な慣習のような現象だった。
午後六時。防災行政無線のチャイムが、どこか物悲しいメロディで夕暮れの訪れを告げる。オレンジ色の陽光が、山肌に張り付くように建てられた古い団地の窓ガラスを一枚ずつ焼いていく。その瞬間、世界のルールが書き換わるのだ。
五階以上の住人たちは、床を蹴るのではない。彼らは天井に向かって「落ちる」のだ。
ドサリ、という鈍い音が、あちこちの棟から響く。それは人が床に倒れる音ではなく、かつての天井――今は彼らにとっての新しい床――に足をつく音だ。
工藤晴人は、団地の麓にある分譲マンションのベランダから、その光景を眺めていた。ここから見る鯨ヶ丘団地は、まるで巨大な墓標のようにも、あるいは空に突き刺さったクジラの背びれのようにも見えた。
双眼鏡を覗くと、六階の窓際に一人の老人が立っているのが見えた。いや、立っているのではない。老人は天井に足をつけ、逆さまの状態で窓の外を眺めている。カーテンは重力に従って空へと垂れ下がり、本来の床にあったテレビやソファは、今や頭上の「空」に張り付いているはずだ。
晴人は手元の古い手帳に目を落とした。それは亡くなった祖父、善蔵が遺したもので、表紙にはかすれた文字で『鯨ヶ丘団地 構造概念図』と記されている。
「また見てるの、晴人」
背後から母の声がした。晴人は無言で手帳を閉じた。
「あそこはもうすぐ壊されるのよ。あんな危ない場所、近づいちゃダメだからね」
母の言葉は正しい。再開発が決まり、団地の解体は秒読み段階に入っている。けれど、あそこには父がいる。離婚してから一度も会っていない、あの逆さまの世界の八階に住み続ける父が。
晴人は双眼鏡を置き、沈みゆく太陽を見つめた。
八月の空気は重く、湿っている。しかし、あの団地の五階より上では、空気さえも空へと昇っていくのだろうか。
その疑問が、すべての始まりだった。