八月だけ逆さまの団地

八月だけ逆さまの団地 第11話「第10章:鯨の鳴き声」

八階の廊下は、もはや廊下の形を留めていなかった。壁は剥がれ落ち、本来の床と天井が交互に迫ってくるような空間の歪みが生じている。 ヴォォォォ……。 地底から響くような、重く悲しい音が団地を震わせる。それは鉄骨が軋む音であり、同時に団地そのものが上げている「鯨の鳴き声」のように聞こえた。 「団地が泣いてる……」 沙希が足を止めて呟いた。 「嫌がってるんじゃない。僕たちを逃がすために、最後の手を貸そうとしてるんだ」 晴人は確信していた。祖父の意志は、暴走する装置の奥底でまだ生きていた。孫の言葉を聞き、自らを壊してでも住人を守ろうとしているのだ。 父の部屋に入ると、そこにはすでに数人の住民が集まってい

八階の廊下は、もはや廊下の形を留めていなかった。壁は剥がれ落ち、本来の床と天井が交互に迫ってくるような空間の歪みが生じている。
 ヴォォォォ……。
 地底から響くような、重く悲しい音が団地を震わせる。それは鉄骨が軋む音であり、同時に団地そのものが上げている「鯨の鳴き声」のように聞こえた。
「団地が泣いてる……」
 沙希が足を止めて呟いた。
「嫌がってるんじゃない。僕たちを逃がすために、最後の手を貸そうとしてるんだ」
 晴人は確信していた。祖父の意志は、暴走する装置の奥底でまだ生きていた。孫の言葉を聞き、自らを壊してでも住人を守ろうとしているのだ。
 父の部屋に入ると、そこにはすでに数人の住民が集まっていた。沙希が声をかけて回った、六階の老人たちだ。彼らはロープで互いの体を繋ぎ合い、窓際に立っていた。
「晴人くん、本当にこれでいいのかい?」
 一人の老人が、長年使い込んだ古いラジオを手に持っていた。
「はい。それを空に……いえ、本来の床に向かって投げてください。重力を『重く』するんです」
 日没が迫る。太陽が山の端にかかり、最後の光が団地を横から射抜く。
 その瞬間、団地が大きく跳ね上がった。地面との繋がりが完全に断たれ、巨大なコンクリートの塊が宙に浮く。
「今だ!」
 晴人の合図と共に、住民たちが一斉に持ち物を手放した。
 ラジオ、古本、壊れた時計、使い古した鍋。それらが逆さまの重力に従って、本来の床――今の頭上――へと向かって「落ちて」いく。
 しかし、それは単なる落下ではなかった。手放された物品の一つ一つが、住民たちの「過去への執着」を剥ぎ取り、団地の質量を精神的な意味で変えていく。
 誠司もまた、自分が長年描き溜めてきた設計図の束を、空へと放り投げた。
「さようなら、僕の孤独」
 父の呟きと共に、青い紙が雪のように舞い上がる。
 その時、団地全体を包んでいた赤い光が、青白い光へと変化した。鯨の鳴き声が、安らかな吐息へと変わる。
 重力のベクトルが、ゆっくりと、しかし確実に回転を始めた。